残波岬の決闘

今回は”残波岬の決闘”について記事を纏めてみました。ブログ主が確認した限りでは”残波岬の決闘”と思わしき事例は2件あり、一つが昭和 29 年(1954年)の那覇とコザのアシバーたちの揉め事に関するものと、もう一つが昭和 39 年(1964年)の空手道場の門下生間のトラブルに関するものです。この2件は実際に決闘は行われなかったようですが、もしかしたら他にも決闘の事実があるかもしれません。

昭和29年の決闘について、比嘉清哲著『沖縄警察五十年の流れ』から関連項目を抜粋しました。読者のみなさん是非ご参照ください。

比嘉清哲著『沖縄警察五十年の流れ』196~197㌻

㈢ 残波岬の決闘はデマであった。

1954年(昭和29年)10月21日夜、コザ一帯でモミクジ街頭賭博をしていた一味の一人が、真和志市与儀の農連市場近くで開帳中那覇派の暴徒に袋だたきにされた。

街頭賭博の一味は、コザ派首領・喜舎場朝信らに応援を求めた。翌22日夜、コザ派は約80人で那覇にのり込み、パチンコ屋にいた那覇派2人に暴行。那覇の暴徒も数十人を集めて仕返しに出た。

だが、両派の集団対立は対峙するだけに終った。

那覇署は「最後のケリを残波岬でつける」”決闘状”まで準備しているとの情報を聞き込みもあって緊張、厳重に警戒したが、この情報は「デマ」で、暴徒集団の存在を強く印象づけるようになった。

この集団対立に加わった暴徒は、殆どが那覇とコザの米軍キャンプ内の施設、建築現場に巣食って、カンパン(飯場)で賭博をしたり、軍需物資を横流ししたりする”アシバー”たちであった。

上記引用に関しては、昭和29年(1954年)10月24日付沖縄タイムス3面と、同年11月16日付の琉球新報にもほぼ同じ内容の記事が掲載されていました。まずは沖縄タイムスの記事をご参照ください。

1954年10月24日付沖縄タイムス3面

都心で暴力団が対立 – 警察、摘発に乗り出す

映画もどきに – 残波岬の決闘 暴行、脅迫、傷害と那覇市内の盛場を中心に夜の不祥事件はあとをたたず、市民を恐怖のドン底におい込み、暴力の街を化しつつあるが、このほど中部地区の暴徒一団と那覇市内に巣食うゴロ一味の暴力対抗が明るみに出た。警本刑事課では検悪な情報を集め、那覇署に捜査方を指示すると共に、これを機会に暴徒の徹底的摘発をもくろんでいる。

警本に入った事件のいきさつはこうだ。21日夜越来村の某(街頭賭博の一味)が、真和志市与儀農連市場近くで、付近に集団中の暴徒に袋叩きにされた。多勢におされて手が出せず泣く泣く引き揚げ、そのことを親分格のTに話したことろ捨てておけないと憤慨、仕返しを企んで普天間地区一帯を荒らしているというK組に話しを持ちかけたら協力を誓ったので街頭賭博の一味約80名を集め、22日夜那覇へのりこんで来た。同夜7時ごろ、市内Yパチンコ店で遊戯中の親分格G(47)とT(29)の両名を見つけ矢庭にとびこんで暴行、付近にいた暴徒一味が対立したため一応おさまったが、中部地区の一隊はケリをつけるまでは、と不穏な雲行きになり、22日ひるはそのまま相対時、那覇の暴徒も一味約数十名を集め、仕返しの態勢にあるという。

通前派出所では、本署の指示をうけ捜査にのり出したが、最後のケリを残波岬で行うといった決闘状が準備されているといわれ、厳重な網を張っているが、この対立で那覇市内および、中部一帯は街頭賭博が一軒もない、と報告されており、更に最近取締りの目が厳しくなったのと、一般人がとびつかないので次第に下火になりつつあるようで、こういった不況から縄張り争いにまで発展したのではないかといわれている。(旧漢字等ブログ主で訂正済み)

次は同年11月16日付琉球新報の記事です。

ニュースストーリー 不首尾におわった”残波岬の決闘”

【中部支局】波風荒き残波のがん頭で街の暴力団”那覇組”と”胡差組”の一大決闘を展開し世人を魅了せんとして企画されたゴロツキ映画社の54年秋の力作”残波岬の決闘”のあらすじを紹介しよう。

△…惜しいことにはフアンの皆様この力作は予告篇にとどまり上演不能と相成りました。即ちゴロツキ社の名プロデューサー与那城村生れ住所不定新屋信太郎(25)はさる9月9日嘉手納村4区3班兼次某方屋台店で比嘉某君に対する暴行脅迫並傷害被疑者として指名手配中のところ、10月29日午前8時半ごろ読谷村楚辺区2班情婦渡嘉敷某女方に於てコザ署宮里巡査によって検挙されたからであります。

△…”残波岬の決闘”…

真実か?狂言か?ゴロプロデューサーは大言壮語の習癖をもっているとか…以下は宮里巡査の調書からひろった”残波岬の決闘”物語である。

△…私は貴方達に検挙されてよかったと思います。貴方達もすでに知っていると思いますが私達の”コザ組”と南部の”那覇組”が現在対立中であり、何時か喧嘩になりそうな状況にあるのでケンカにならない前に検挙されてよかったと思います。

△…この対立の原因は私達”コザ組”の者4,5名が或る日那覇へ遊びに行つたところ少々の事で”那覇組”の者と衝突してケンカとなり私達”コザ組”は人数が少いためこのケンカは敗北となり、その日はコザに引揚げたのですが”那覇組”にたたかれた仲間の者が”これではすまさん”と相談の上組の勢力を増してタクシーを借り切って那覇へシカエシに出かけたのです。(同人は何を相談したか那覇に行ったメンバーやその後の事については語らなかった。)

△…しばらくして”那覇組”から私に対して”何れ後日、此の前の話は必らずつける”(決闘の申入れ)という手紙が来ました。(その内容場所等については何も語らない)

私は今度本署に行つて田場警部補さん富永さん等に今までの”那覇組”対”コザ組”のことを話そうと思います。

△…以上が”残波岬の決闘”の予告篇であるが同人が大言壮語する習癖からしてこの決闘は不首尾になる模様で”狂言沙汰”とも見られている。

残波岬のがん頭に怒号を上げる潮シブキの舞台は絶ゆることなく、この狂言の実演にカツコウなシーンではあるのだが……(旧漢字等ブログ主で訂正済み)

琉球新報の記事はいささかふざけた内容ですが、決闘は行われなかった点は共通しています。昭和29年の事件に関しては、「この情報は「デマ」で、暴徒集団の存在を強く印象づけるようになった。」との比嘉清哲さんの証言が真相に近いかもしれません。

昭和39年(1964年)の事例は下記リンクを参照ください。(終わり)

残波岬の決闘(昭和39年度)

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