沖縄が日本に復帰した理由の一つを見つけたお話

Chobyo_Yara

本日(5月19日)は当ブログを開始して1周年にあたります。これまで251記事を掲載してきましたが、振り返るとアメリカ軍の占領行政時代の話題がほとんどないことに気がつきました。そこで手持ちの屋良朝苗回顧録(1977年、朝日新聞社刊行)を改めて読み返しているのですが、その中でアメリカ軍の時代において何故日本国への復帰が実現できたのか、理由の一つを見つけることができましたので、そのエピソードを紹介します。

ひどい教育環境の中で文教部長(昭和25年12月)となった私は、教育行政の課題の第一は、校舎の復興だ、と決意した。第二が教職員の生活保障、第三に教職員の確保と資質の向上、と考えた。

しかし、肝心の米国が、教育を第一義と考えてくれない。私たちが、本土並みの校舎を早く造りたいと要請したら、米民政府の教育担当官が説教した。「本土ではこんな校舎ができている、アメリカのはこうだ、それに比べてわれわれのはーなどと人のまねをするのは民主主義でない。民主主義とは、自分の分相応のことをやってゆくことだ」。彼らの考えでは、沖縄は自給自足できる経済体制の確立が第一義、それができたら力相応の教育をやればよい、というものだった。

そのころ米民政府当局が沖縄本島南部の十一町村を巡視し、各町村長に「いま一番復興してもらいたいものは何か」と聞いたことがある。すると、全町村長が異口同音に「校舎の復興」と答えた。帰ってきた米民政府の係官は「われわれの考えと、沖縄の人たちの考えは一致しない」と述懐したものだ。(廃墟の中で、教育よりまず経済の米国より抜粋)

このエピソードからも当時のアメリカ人と沖縄の人たちの考えの違いが良く分かるのですが、特筆すべきは教育行政に関わっていた屋良朝苗氏だけでなく、地方行政の長たちも戦後復興で一番必要なのは教育の再建であることを意識していたことです。この認識は廃藩置県後の琉球人にはなかったもので、あまりの違いに驚きを禁じえません。ちなみに明治12年(1879)の廃藩置県以降の沖縄県の教育の状況は太田朝敷著「沖縄県政五十年」から抜粋した下記エピソードをご参照下さい。

前項に述べた通り、小学校は明治13年首里の三平等校に開設したのが初めてであった。首里には十五ヶ村あって、今日の池端町当時の町瑞村を除く外は、何れも村学校即ち読書学校があったが、この十五ヶ村を更に真和志の平等、南風の平等、西の平等の三区に分け、各区に平等学校があり、これに講談師匠を置て区域内の青少年に講義を授けたのである。

この平等学校は国学と村学校の中間学校であったが、村学校は旧式のまま開校をつづけさせて置いて、先ず三平等学校だけを小学校に引直し、真和志の平等を「西」、南風を「南」、西を「北」小学校と名づけたのである。その他前に述べた通り14年までには18の小学校が出来たが、15年に至っては急激に発展して、中頭、国頭の各間切、宮古の平良や伊平屋島などにも新設されたので、15年には53の小学校を見るに至り、殆ど県下の各地に行渡るようになった。然し当時の社会は新時代に目覚めたものが極めて少なく、一般父兄の殆んどは新教育を喜ばぬ状態であったから、折角小学校は開設したものの、就学者の勧誘には非常の困難を感じ、それが為め稍もすれば、県治上にも悪影響を及ぼすうような恐れさえあったので、一面には恩恵的に児童に文具を給与したり、村間切に命じて夫役を免じたり公費を免除したりして誘致し、他面には各村に割当て強制的に就学せしむるというような手段を取り、辛うじて学級を編成することが出来たのであった。

首里、那覇の如きは村学校の復活以来、旧式(漢学)の教育は盛んになったので、小学校に就学したものでも、家に帰ると、漢学の教育を受けるという状態であったから、小学や中学の教育は期待したような効果は挙げ得なかったのである。それでも明治17年に至っては、学齢児童7万5215人中、1854人の就学者があり、歩合は2.4パーセントを示している。尤もこれは男女を合した歩合で、男子ばかりだと、5パーセント位いといわれている。(沖縄県政五十年 教育進展の過程 二 初等教育普及の状況より抜粋)

廃藩置県当時の沖縄県では、せっかく学校を新設してもなかなか就学者が増加しない状況でしたが、それがアメリカ軍の占行政時代には「教育こそ第一義」に意識が激変しているのです。大日本帝国時代の教育がいかに適切かつ大成功だったかがこのエピソードで確信できます。しかも当時の沖縄の人たちは「標準語」での教育を最優先に行い、小学校の正式科目として「英語」を採用することに頑強に反対したのです。

アメリカ軍の占領行政でなぜ沖縄が復興できたか、その理由の一つは大日本帝国の遺産をフル活用できたからです。その最大の遺産が教育制度で、当時の人たちは戦後も日本式の教育方法を守り抜いたのです。だからこそ昭和47年(1972)の祖国復帰が実現できたのです。そして現代の歴史教育における「戦前の教育は皇民化教育、軍国主義の教育だった」という主張が極めて一面的かつ不適切であることを確信せざるを得ません。実に残念なことです。(終わり)