現代社会の古典離れを憂うお話 その2

Junji_Nishime

現代社会において、「若者の○○離れ」という言葉があります。マスメディアが作り出した言葉のようですが、代表的なのが「若者の車離れ」という語句ではないでしょうか。実は古典も当てはまります。昨今に出版された沖縄本を参照すると、明らかに古典の知識が欠けているなと思われる書籍が非常に多いのが気になります。

その代わりに現代人に読まれているのが「How to 本」です。書店に行くと、それこそ汗牛充棟という言葉が当てはまるほど「How to 本」が販売されています。書店に限らず図書館においても状況は同じですね。「How to 本」は手軽に参照できるマニュアルですから、誰にでも簡単に理解できて、そして即効性がある便利な書籍です。もちろんブログ主も大いに活用しています。

ただし「How to 本」だけを参照しても、教養が身につくとは限りません。たしかに「博識な人」を多く生み出すのですが、残念ながら教養を高めることにはならないのです。そして現代の沖縄本も保守・革新に限らず博識な人の著作が殆どだと言っても過言ではありません。だからこれ等の本は「確かに言いことを書いているけど、一回読めばいい」という気持ちにならざるを得ません。「読んでいて辛くなる」本すら出版されています。

ためしに昭和25(1950)年8月21の「沖縄ヘラルド新聞」に記載された社説をご参照ください。

七夕と平和

秋風の吹きにし日より 天の川

瀬に出で立つをまつと告げこそ 

これは万葉集にある歌であって、七夕にちなんだものである。七夕といえば、牽牛と織女二星が、天の川で年に一度の逢瀬を祝福することから生まれた行事で、この季節に、われわれは、年に一度の行事として、祖父や故人を祭るのである。歌は織女が牽牛を思う切々たる恋の歌である。秋風が吹き始めると、逢う喜びにいそいそとして、天の川瀬にたたずんで、牽牛の到来を待ちわびている姿を十分にほうふつさせるものがある。これは万葉期ならでは、つくりだせない雰囲気である。われわれの今住んでいる世界と比較して、あまりにも人間的な開放的な世界である。日本最大古典である万葉集を生んだ時代は、壬申の乱を除いては、概して平和な時代であって、日本のある史家は、この時代を称して、日本のルネッサンスと呼んでいるほどである。

政治、経済、芸術、制度を総括しての文化は、歴史の上で、長い平和の続いた時代において、百花繚乱と咲き乱れたのである。この意味で、真に文化を愛する人達は、平和を擁護しなければならない。しかしながら、われわれの世界は、平和とあまりにもかけ離れた世界であり、世界平和の曙光は、いま、見出すべくもないのである。われわれが、現実に安易な妥協をすることによって、平和への努力を忘れたならば、事態はますます急転して、再び第三次の世界大戦に巻き込まれないと、誰が保証することができよう。

平和は人類の希求する最大の理想であって、そのため、われわれは、数多くの犠牲を払ってきたのである。過去の歴史は、それ自体、戦争を是認するものであって、そのためには、文化と人命の犠牲も、またやむを得ないと考える恐ろしい破壊主義者である。

七夕は、われわれが、この戦争でなくなった同胞の在りし日を、追憶する日である。しかし、それが単なる追憶に終わるならば、たいした意義はない。島尻の山野に眠る同胞達への最大のはなむけは、われわれが平和を守り抜くことを、神前に誓うことである。また、それが骨を拾われず、夏草の夢からさめようともしない無名の戦士達に捧げる、最大の贈り物である。

血は血でしか拭われないという人達は、歴史主義者である。この人達は、過去を後生大事に守っている人達であって、戦争があることに、もう一度過去の夢を取り戻そうとする戦争肯定論者である。平和は決してこの人達のものではない。この人達には、七夕の平和な雰囲気を迎える資格もなく、またこの文化を語る資格もない。平和を愛し、人類を愛する人達のみが、この七夕の夕空を眺める資格をもつのである。銀河を中心として、天空の星斗は輝いて、さながら悠久の平和を象徴している。あの星のように、われわれ人間も、平和の象徴でありたいものである。

(1950,08,21)

上記の社説は若き日の西銘順治さんが沖縄ヘラルド新聞に掲載したものです。西銘さんは大正10(1921)年生まれですから、沖縄ヘラルド新聞を創設した当時(昭和25年)は29歳です。当時の沖縄には現代のような「How to 本」なんてありませんが、それでも20代後半の若者がこれほどまでに教養を感じさせる文章を書くことができたのです。

ブログ主はこの文章を読んで雷に打たれたようなショックを受けました。現代の若手論客に西銘さんのような教養あふれる文章を書ける人はいるのでしょうか、昨今の沖縄本なんて単に相手を罵倒する文章のオンパレードではありませんか。ブログ主も現在のレベルでは上記のような文章を書くことができません。だからものすごくショックを受け、かつ悔しい思いから逃れることができません。

古典を熟読したから必ずしも教養が身につくとは限りませんが、教養を見につけるための必要条件であることは間違いありません。若き日の西銘さんの愛読書は万葉集でした。戦地にも万葉集をポケットに忍ばせて南方に赴任した位です。上記の社説は古典に対する造詣の深さから教養を感じさせる内容で纏められ、思想の違いを超えて万人の共感を得ることができる素晴らしい出来栄えです。それゆえに現代の若手・中堅の論客には古典の再読を強く提唱したいのです。もちろんブログ主も日本や琉球の古典の再読に取り組んでいる最中です。そして近い将来に保守・革新の思想の違いを超えて万人に共感できる素晴らしい沖縄本が刊行される日が来ることを心から願ってやみません。(終わり)

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