理論と理屈の違い

先日、沖縄県立図書館(にしか貯蔵されていない)の『又吉康和追悼録』を始めて読んだところ、面白い話を見つけましたので紹介します。追悼録には千原繁子さん(沖縄初の女性医師、1898~1990)の追悼文が掲載されていましたが、その中に又吉さんが千原さんを諭す箇所がありました。

その内容は、「キミの話は確かに『理』だ。ただし人情を加味しないと『理論』にはならない。人情を考慮しないと『理屈』になってしまい、理によって他人を屈服させる結果になる」になります。千原さんはその言葉に感銘を受けたとの記述があり、ブログ主も大いに感じるところがありました。

ちなみにブログ主なりに考えた理屈の一例がこんな感じです。

「最近、自身の健康を考慮しないで天下国家や反戦平和を唱える人が目立つ。とかく沖縄県は日本一のメタボ県との風評があるが、自身の体型をコントロールできない分際で正義を主張しても説得力はない」

このように言われると、正論とはいえ嫌な気分にしかならないでしょう。これが「理屈」です。又吉さんは千原さんに「理によって相手を屈服させるような言動は慎みなさい」とやさしく諭していたのです。

たしかに「理」で相手を屈服させてもろくなことにはなりません。ハッキリいって恨みを買うだけです。昨今“歯に衣を着せずズケズケ言う”識者が持て囃される風潮がありますが、そういう人は他人のメンツを考慮せず、自分の発言に酔っているだけではないでしょうか?仲宗根源和さん(1895~1978)がそんな感じで、実際に又吉康和さんとは犬猿の仲でした。

しかも現代では「理」も構成できない識者が存在します。その最たるものが「琉球独立論」で、「独立することで沖縄県民の抱えている差別感情を払拭したい」という前提が否定されると、「理」が木っ端微塵にふっとんでしまう脆弱な代物です。現代社会は言論が自由になったのはいいのですが、その代わりまがい物の「理」が世にはばかる時代でもあります。ブログ主も記事作成には細心の注意を払っているつもりではありますが、又吉さんの金言を常に言い聞かせてブログを運営していこうを決意した次第であります(終わり)。

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