蔡溫時代の人民 – 眞榮田義見

正月休みの炉辺の話題になつたらという積りで標題の事を旧こうの中から二三を拾ろい集めてみる。

世界は人民に依つてのみ成立し発展して来たのに人民は過去に於いて不当にしいたげられていた。人民が自由をかち得たのは近世になつてからの事で、近世史は庶民と封建勢力との血の斗争を示している。沖縄の歴史も支配者の政●史支配の歴史は今まで教えられて来た。

その人民はどういう生活をしていたか、沖縄史の第二黄金時代とも言われる尚敬王代の事実を「球陽」の中から拾つて見る。

尚敬王時代には蔡温、名護聖人程順則、初めて劇作をした玉城朝薫、民衆詩人恩納ナベ、一代の風雲児平敷屋朝敏等の偉材を沢山出て文化の高い時代と言われている。

封建時代の貴族は何れの時代にも人民の搾取の上に栄華の限りをつくしていた。

その高い文化は人民の汗の結晶であるという言い方は当らないかも知れないが、人民の貢賦の上に文化を作るすべての条件が作られた事を考えるとそうみてもいゝのである。

沖縄の黄金時代と言われる尚敬王の人民にも亦そういう事はたしかに言われるのである。

尚敬王即位元年の夏に(尚敬の即位は十二月二十四日)国師さい温に対して毎日禁城に参内するのに道が遠く寒暑の来往最も困るだろうというので、特に家宅を首里西の平等の赤平村に賜わつている。

さい温は四十七才にして三司官に任ぜられ、ここに名君賢相相遇する政治が始まるわけである。

尚敬王元年の事

中城間切伊舎堂村の和仁屋親雲上は康き己うしの年の大飢きんがあつた時に米を出して人民の餓を救うたが今年も亦米を出して十村の餓を救うた。十村とは伊舎堂、添石、屋宜、当間、新垣、津波、泊、久場、熱田、和仁屋である。

福地村比嘉がしばしば米を出して餓死を救い、座喜味村上地が又しばしば餓死者を救つて座敷位及び御掛物一幅を賜わつているし、今帰仁郡岸本村わく川が餓死者を救うているし、それがしばしばという形容が使つてあるからには凶作餓死が度々有つて、それは死に隣合わす様なみじめなものであつたが政府は何等手を打つた所は見えない。

蔡温が政治を取つてからの備蓄貯蓄の倉が中央にも地方にも奨励されたようではあるが此の記録では人民に取つて凶作は餓死で有つたと取つてもいゝのである

次に土地肥じようの所は猶お悲惨だつた話尚敬の十六年、東風平村は田が大変肥えていたので貢賦が余計課された、そのために人民は負担が重く疲弊して貢賦を全く納める事が出来ないようになつた。康き年間のみずのえ寅の年に凶作のききんがやつて来た又そのために貢賦が愈々納める事が出来ない様になつて累計九百五十石余りの滞納となつた。そこで政府は総地頭間に命じて農業を監督せしめた。総地頭は富盛村の比嘉ちく登之、東風平村の浦崎ちく登之、宜寿次村の賀數ちく登之、山川村の赤嶺仁也を以て耕作総頭となし、名城村の新垣ちく登之、伊覇村の金城、外間村の金城、志多伯の金城、友寄村の知念、当銘村の金城を耕作当となし以て夫地頭神谷ちく登之を助けて各々心力を盡して百姓を奨励したのでそれから五年ならないうちに其の滞納を完納する事が出来て褒美を賜わつた。

今の東風平村の人口から二百年前の人口を推算すると僅少の人口だつたと思われる。それに滞納が九百石余り、しかも収穫督励官まで任命して五ヵ年がかりで之を納めたのである。

此の間人民は朝に星を被いて耕作し、夕に又星を戴いて帰つて牛馬の様に働いた事が想像される。人民の悲惨さが分るわけである。こんな話は大分ある様だが紙面の関係で人心売買の話

泉崎村の赤崎林盛は林実の次男である。家が貧ぼうでき告する所が無く、遂に林盛を冨名腰村糸数家に売つて以て生活の資となした、時に林盛は十才、百姓に落とされたのでもう氏の家譜にも乗らないとあるが百姓に売られ士族から落とされたみじめな話である。

尚敬王三十一年高嶺間切松米次は九才の時父が貢賦を納める事が出来なかつた。そこで家産の有りつたけを売つたが猶お足りなかつたので父子共々に身売りをした。併し子どもの松は超人的の働きをして母及び妹を助けて身売りをさせないようにして遂には父を買い戻し、自分をも買い戻したとある。がこんな超人的働きをし得なかつた一家離散の悲劇はいくらも有つた筈である。しかもそれは税を出す唯税を出すだめだつたのである。

奥武村の大城ちく登之という者は八才にして父に死なれ、十四才に母に売られ、我じゃ村の平良掟親雲上、西原村の城間掟親雲上、伊舎堂村の島袋等々の例が相当出て来るが、此の記録に現れたのは氷山の一角で記録に取り上げられなかつた人身売買一家離散はいくら有つたかも分らないのである。

尚敬王の六年に諸間切の百姓が首里、那覇、泊、久米村の民轉を禁じたとある、イナカヤンバラーの語が残つている通り、首里、那覇、泊、久米はその地域に居るというだけで尊敬されるという特権が有つた事が想像される。

十三年には百姓が士族を偽り称することを厳禁している、この禁令が出るからには、士族を詐称する者が相当居た事を示すしその事は士族の特権が如何に大きかつたかが分るのである。此の都市偏重や支配階級としての士族を尊重した事は田舎の人が工芸をする事を禁ずる事で甚しかつたと言える。

それは尚敬十六年

諸郡の村人が真の特技に依つて畳匠、皮匠、鼓匠、●匠、●●匠、●●匠、鉄匠、●匠、馬鞍匠、●糸匠、●●匠、彫物匠、玉●匠、等になつたら此特技で公用を弁じて各人の丁●を免ぜられていたが本年になつて山原田舎の人がこういう技術者となる事を厳禁してたゞ首里、那覇、久米の人だけが常にこの技術で公用を弁ずるようにしたのである。之は首里那覇の生産が無く首里那覇住民の生活よう護のためだつたかも知れないがそれにしてもこういう工芸的なものは田舎の百姓は自家用的需要のために造る以外には全く水呑百姓の農ど的存在が認められていたのではないかと思われる。

尚敬三年に首里の安里が提燈と雨傘を作つているがこんな幼ちな手工芸品がやつとこの年に出来たとなると表面の文化は高くなつていたが人民一般の文化程度が想像される。

以上極く一部の資料ではあるが何とか当時の人民の状態を推測する材料にでもと思つて物したわけである(那覇地区教育長)

・1952年1月1日付琉球新報

 

 

 

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