魂の叫びだけが愛と平和を勝ち取る(笑)

10月末から11月に入って、ブログ主はこれまで蒐集した “積み史料” の整理に追われています。そのためブログ更新も若干遅れ気味になってしまいましたが、たまった史料をチェックしている最中に「ピースフルラブ・ロックフェスティバル」について気が付かされた件があり、試しに記事を作成しました。

その前に「ピースフルラブ・ロックフェスティバル」と題したイベントについて説明すると、初回は昭和58年(1983)8月に「紫」の再結成コンサートとして開催され、2回目以降は複数のミュージシャンが参加、そして3回目からは行政が全面的にバックアップして野外コンサートを開催するようになります。

ちなみに、昭和60年(1985)の行政の熱意は(当時の新聞記事をチェックしても)凄まじいものがあり、それに呼応すべく沖縄タイムスがこれでもかと連日の”提灯記事” 掲載、細かなツッコミどころはあるにしても8月10日と11日のイベントは無事終了し、そのノウハウを生かして目出度く翌年以降もフェスは開催されるようになります。

なお第三回終了後、(ピースフルラブ・ロックフェスティバル85)主催者の中部広域市町村圏協議会の事務局長を務めた太田守昭さんは「これで一応成功したと見ている(2日間の来場者数が計1万人になったことに対する感想)。来年へ向けて自信を深めた。

将来はリオのカーニバルのような世界的イベントに持って行きたい。

関係者に感謝します」との壮大な意気込みを語っていました。

ただし、このイベントは行政が期待していたほど、地域を活性化することはありませんでした。その証拠にピースフルラブ・ロックフェスティバルは2000年代にはいると徐々に規模が縮小し、いまではコザミュージックタウンで細々と開催している有様です。つまり地域イベントとして定着はしたものの、その上をいく集客力抜群のワールドイベントには発展しなかったのです。

ではなぜそうなったのか、一番の理由は愛と平和を語るにはほど遠い生き方をしてきた “人種” をメインに起用したからに決まってます。もちろん行政も、実際にイベント運営を仕切った「サン・プロジェクト」も、そんなことはわかっていて、それでいてオキナワンロックの面々に「愛と平和を歌う」という仮面を被らせてフェスを開催したわけですが、結果的にそのイメチェンは失敗に終わってしまったのです。

今年開催されたバスケットのワールドカップではキングス・ブースターたちの熱い声援が日本代表の躍進の一因となりました。改めて沖縄のバスケ熱が日本はおろか世界中に知れ渡ったわけですが、そのバスケ熱は琉球ゴールデンキングスの球団設立当時からの地道な活動、つまり「地元に愛される球団」とのポリシーを貫き通した結果に他なりません。

ただし、オキナワンロックはその正反対なのです。アメリカ世から復帰後までコザを中心として好き勝手やってきた連中が、落ち目になってから行政と組んで「ロックで愛と平和」をアピールしても地元は白けるだけです。誤解を恐れずにハッキリいうと、彼らは今も昔も、

地元からは愛されないキャラ

であり、そしてこの点がオキナワンロックの “本質” なんです。しかも令和の今日になっても過去を美化して地元に居座る存在になってしまったのがピースフルラブ・ロックフェスティバルの最大の誤算であり、やはり大型イベントで地域を活性化するには「地元から愛されるキャラ」を前面に押し出すのが一番だと痛感して今回の記事を終えます。

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