組織暴力団 – 火を吹く抗争 ③ 抗争事件の底流〈下〉

沖縄連合旭琉会が結成されたのは昭和45年12月8日。沖縄は念願の祖国復帰を目前に控え、各界の復帰対策が進められていた。組織暴力団も例外でなく、復帰対策を練った。その結論が沖縄連合旭琉会の結成だった。これまで血なまぐさい対立抗争を繰り返してきた那覇派と山原派が過去のことをすべて水に流し、大同団結、復帰後予想される本土広域暴力団の沖縄進出を阻止することになった。

それだけに旭琉会主流派の山原派と対立抗争を繰り返していた上原一家が、上原組と名前を改め、全国一の広域暴力団・山口組をバックに旗揚げしたからたまらない。組織の存亡をかけた大抗争事件が起こることは火を見るより明らかだった。

山口組後ろ盾に / 対立はさらに悪化か

それでも旭琉会はしばらくの間、山口組系大平組を背に旗揚げした上原組の出かたを見守っていた。しかし、上原組に続いて太平組の杯を受けて琉真会が旗揚げするにおよんで旭琉会の危機感は短銃発砲事件となって一気に爆発していく。琉真会の出現は火に油を注ぐ結果になってしまった。

広域暴力団「山口組」は全国制覇を目ざす、日本最大の組織暴力団。その暴力汚染地域は36都道府県にまたがり、傘下に500団体をしたがえ、約1万11千人の構成員でピラミッド型の組織をつくっている。上原組と琉真会が杯を受けた大平組は、その山口組の直系に当たり、兵庫県尼崎を根城にするバク徒が中心。大平組そのものは構成員約50人ぐらいだが行動するときには山口組として動くため、動員力については県警も正確なことはわからないと言う。19日に大挙して沖縄上陸をこころみた山口組のリーダーは「何千人でもおくり込む」と不気味な捨てセリフを残して沖縄を去った。

しかし、ことしに入ってから山口組は三代目の田岡満組長の後継者をめぐって内部抗争が激しくなってきている。旭琉会は「四代目相続問題で山口組は内部に火がついて沖縄の上原組・琉真会への援軍を送ることができない」と判断、さる13日の那覇市久茂地での発砲事件から一斉攻擊を仕掛けてきたものとみられる。

ところが旭琉会のこうした動きを察知してのことか、わからないが、葬儀参列を名目に山口組は34人の組員を沖縄に向かわせた。県警捜査二課でも「まさか援軍をよこすことはあるまい」とタカをくくっていただけに山口組系暴力団の大挙上陸にあわてふためいた。

県警捜査二課では「今回の上陸騒ぎは初めからデモンストレーションに過ぎない」と見ている。しかし、また来るのかどうかについては全く予測できないとしている。

ある捜査幹部は「今回の上陸作戦は単に旭琉会のけん制がねらいだ。もし、上原組・琉真会が旭琉会にトコトンやっつけられ、その存亡が危ぶまれる段階で山口組がどうでるかが問題だ。仮に山口組が本腰を入れて上原組・琉真会の助っ人として動くならば、抗争事件は大変なことになる。それより、現実問題として県警が最も恐れるのは山口組のプロの殺し屋が秘かに沖縄に潜入、旭琉会の大物をねらった場合だ」と言う。いずれにせよ、旭琉会と上原組・琉真会の対立抗争は、さらにエスカレートしている火だねを抱えたまま、事態は最悪の方向に向かいつつあると言えよう。(昭和52年5月22日付琉球新報13面)

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