「勲」から「功」へ

当運営ブログもおかげさまで来年は7周年目を迎えます。試行錯誤を繰り返しながらもなんとか7年目にこぎつけた感じですが、実は2年目あたりからカルト的人気を誇る分野が誕生しており、今日に至っております。

それは読者の皆さまご存じの通り、「沖縄ヤクザ関連」です。そして、これまでに自他ともに認める良質のコンテンツを配信し続けてきたわけですが、本日改めて過去記事をチェックしたところ、今年度は19記事を配信していました。ちょっともったいないので “20” というキリのいい数字で今年度を終わりたく、急遽ヤクザネタをアップしますのでご了承ください。

昭和45年(1970)12月08日、那覇派と山原派が合体して「旭琉会」が誕生した件について、当運営ブログでも記事を配信しましたが、実は旭琉会には那覇派、山原派以外のほかに、旧泡瀬派、普天間派、そして地方の小グループも参加して結成されています。もちろん、宮古や八重山など先島諸島のグループも合流していますが、今回はその中の “八重山グループの大物” について言及します。

もしかしてご存じの方もいるかもしれませんが、旭琉会には八重山出身の大物がいます。その名は羽地功さんで、ブログ主が確認した限り、昭和47年3月8日付琉球新報夕刊3面記事が彼の全琉デビューになります。全文(無修正)を書き写しましたので、是非ご参照ください。

旭琉会員を逮捕

八重山署 – 捨て値で土地売却強要

【石垣】八重山では現在、土地ブローカーによる土地の買い占めが大々的に行われ、その背景に暴力団が暗躍しているのではいかと疑惑と懸念が高まっているおり、暴力団の土地買収が明るみになり住民にショックを与えている。

6日午前八重山署は農民から土地を買収し、金を強要しようとしていた石垣市字美崎町13の4、労務、羽地邦雄(21)を脅かつ、脅迫の容疑で石垣市内で逮捕、7日那覇地検石垣支部に送致した。逮捕された暴力団沖縄連合旭琉会八重山支部長羽地勲の実弟。

八重山署は大手土地ブローカーと手を組んだ暴力団がかなり大がかりに暗躍しているものと見て羽地の背後関係を追及する一方、土地買収の実態にメスを入れることにしている。

同署の調べだとさる、2日午後羽地は仲間の島尻克(37)と砂川(以下不詳)らと共謀して同市字崎枝のSさん(32)を同市石垣28,大嵩さん方の女給部屋につれ込み、Sさん所有の土地の売却を強要した。羽地らはSさんに対し「君の土地をおれたちに売れ」と脅しをかけた。Sさんは「坪あたり2㌦70㌣だ」というと、羽地らは「崎枝のほかの土地は2㌦もしないのに君の土地だけがどうして高いのか。1㌦70㌣の間違いではないか」と値段を下げるよう迫った。Sさんは「これでは土地は売れない」といったところ、羽地らは「おれは旭琉会八重山支部長の弟だ。もし土地を売らなければ刺し殺す。暴力団がどんなことをするか知っているだろう」と〔脅〕迫した。

さらに羽地らは「どうしても土地を売らなければわれわれが土地を買うため君の家に出向いたがムダ足になった。足貸として日当1000㌦を支払え。支払えなければ4日までに土地の登記書類と印鑑を旭琉会事務所に持ってこい」とおどした。(昭和47年3月8日付琉球新報夕刊3面)

ここで興味深いのか彼の名が羽地勲と表記されている点です。実は、平成23年(2011)11月27日に行われた “【旭琉會】親子縁組盃之儀式前編” の動画をチェックすると、彼は取持人として「羽地功」として表記されています。ならば、いつから「勲」が「功」になったのかを検証すると、

・昭和50年(1975)10月17日付琉球新報朝刊03面に掲載された又吉世喜のお悔やみ広告には「羽地勲」と表記。なお、友人代表の順番は27番目で、当時は富永清さんより上位に配置されています。

・琉文21のサイトによると、昭和53年の二代目旭琉会では「羽地勲」の名前で本部長を務めています。この点については史料で裏付けが取れており、昭和52年(1977)08月11付琉球新報夕刊03面に「旭琉会の多和田真山会長、座安久一理事長、羽地勲本部長、新屋秀雄風紀委員長の4面を呼びつけ(以下略)」との記載があります。

・平成02年(1991)9月の分裂騒動のときは、沖縄旭琉会(富永理事長派)について、組織の中核を担いますが、平成03年ごろまではどうやら「羽地勲」の表記だったらしいです。ただしこの点はまだ史料の裏付けがないので、確認でき次第当ブログにて紹介します。

・「羽地功」の表記が最初に確認できた史料は、洋泉社刊行の「沖縄ヤクザ50年戦争」で、171㌻の沖縄旭琉会組織図において、彼は組織のNo2として「会長代行、功揚一家総長、羽地功」と明記されています。同書によると、沖縄旭琉会が富永清会長と親子盃が交わされたのが平成11年(1999)4月なので、その時から「功」の表記になっていたのかもしれません。

いかがでしょうか。沖縄ヤクザ関連の史料をチェックすると、名前の表記が複数あることに気が付きます。代表的なのが新城喜史(沖縄連合旭琉会理事長)ですが、ブログ主が確認できた限りでも、岸本建和、座安久市あたりも複数の表記があり、上原勇吉も「上原勇」なんて表記されるケースもありました。それはつまり、アメリカ世時代の戸籍がいいがけんだった傍証かもしれませんが、羽地さんの場合は如何なる理由で「勲」から「功」にしたのか、ちょっと気になったので記事にまとめた次第であります。(終わり)

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