10月18日、沖縄県東村高江における機動隊員の「土人発言」について思ったことの捕足

mori_kengo

10月18日、沖縄県東村高江における機動隊員の土人発言についての補足です。この土人という発言は沖縄県民にとってどのような侮辱的な意味を持つのか、前回記事とは違ってすこし真面目に考察します。

1879年(明治12)に琉球藩は沖縄県に鞍替えします。その後多くの日本人たちが商用あるいは公務として来沖するのですが、実は当時の日本人たちは現地の住民に対して土人と呼ぶのが一般的だったのです一例をあげると沖縄県政五十年(太田朝敷著、1932年刊行)には以下の記載があります。(旧漢字はブログ主にて訂正すみ)

現今の区制では、区長は群長を兼ね、区書記も多くは群書記が兼ねているので、区の行政機関は全く郡役所と分かつ所はない。また間切長以下の吏員は皆官給であって、間切の行政機関は郡役所の出張所のようである。しかしこの制度は本県の一般民情の上よりやむを得ざるに出たもので、今日にわかに改める訳にはいかない。これには困難なる二つの故障がある。その一は人智が一般に発達していないから、民望あって郷党に重んぜられるものは、多くは老耆もしくは愚直の徒で事理を解せず、さもなければ小狡にして一時を瞞着するようなもので、その結果事務に堪えずして行政を荒廃するか、若しくは人心を扇動して事務を紊乱するの恐れがある。その二は土人中(この頃は他府県から来る人が平気で土人の語を使用するのが普通であった小中学の卒業生にして、多少の知識を備え事務に通ずる壮年もあるが、これらの者に郡役所もしくは県庁の要請によるものにして、その職ならば栄とするも、自ら進んで地方吏員となるを欲せず、よし進んでこれに当らんとするも、人民間に名望なく、むしろ軽視され嫉妬されるので、人民の選挙に依って吏員に挙げられるが如きは到底望まれない。(第三章、制度の沿革概要より) 

上記の内容は、1897年(明治30)の間切島吏員規定、および1898年(明治31)の間切島規定の運用に関する森賢吾大蔵書記官の所感です。当時の沖縄県に対して変則の自治制度を採用する理由について、一言でまとめると「民度が低い」と平然と述べているには驚きですが、それ以上に大蔵官僚クラスですら沖縄県人に対して土人と呼んでいた事実のほうが重大です。

明治政府が琉球王国を沖縄県として併合した理由は「日本人と琉球人は同じである」との認識です。にも関わらず廃藩置県後には平然と土人という単語を用いて差別していた時代があったのです。換言すれば当時の日本人は建前上では大日本帝国の一員、本音では「お前ら日本人じゃない」と思っていたのです。しかも高級官僚クラスですら本音でそう思っているのですから始末が悪い。

だから現在の沖縄県民に対して土人呼ばわりすることは、歴史的にみてタブーそのものです。高江に配備された起動隊員がその歴史を知らなかったことはやむを得ませんが、不適切な発言であったことは間違いありません。今後このようなことがないよう勤務に励むことを切に望みます。

ただし気になるのは、この騒動において歴史的に見てなぜ沖縄県民に対して土人呼ばわりしてはいけないのかを説明したマスメディアが見当たらないことです。本土のメディアが報じないのはやむを得ないのですが、県内二誌がその理由を解説しないのはどうも納得いきません。1903年(明治36)の人類館事件を紹介している記事がありましたが、ブログ主が見た限りではあまり適切な例えには思えませんでした。

今回の土人発言で、鬼の首を取ったように大騒ぎするのは勝手ですが、ではなぜ土人呼ばわりするのがダメなのかを歴史的に説明できる人がいなかったことがブログ主には驚きでした。事件から数日経過しても未だ納得できる論説にお目にかかったことがないので、しょうがないから調子に乗って記事にしました。もしかしてブログ主の思っている以上に県内マスコミの近現代史のレベルは落ちているのでしょうか、すごく気になります。(終わり)

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