【仮説】琉球民族はテーゲーとシムサの観念の前に平等である

先日ブログ主はひさびさに渡部昇一著『日本史から見た日本人 – 古代編』を読んでいたところ、面白い点に気がついたので当ブログで記事配信します。同著118ページからの『(1)「和歌」の前に平等な日本人』の項目は、渡部先生の最高傑作といっても過言ではありませんが、では琉球・沖縄の歴史において「~の前の平等」という発想があったのかを振り返ると、実は全くといって良いほど無いのです。

琉球・沖縄の歴史において“形式平等性の観念”が導入されたのは大日本帝国の時代(1879~1945)から、具体的には大正10(1921)年に普通町村制に移行し、他府県と同一制度が適用されてから実は100年足らずと言っても当たらずと雖も遠からず。しかも途中アメリカ世時代(1945~1972)の中断を挟むという有様です。

ためしに古代から琉球藩の時代を省みると、形式平等性は影も形も見当たらず、身分の差を超えた共通意識を見つけることができません。ただし一つだけ例外があります。この件はまだ仮説ですが、ブログ主は「琉球民族がもし存在するならは、彼らはテーゲーとシムサの観念の前では平等であっただろう」と考えています。つまり国王・王族であろうと百姓であろうと、男女問わず、テーゲーとシムサは身分や時を越えた共通観念として沖縄社会に君臨していたのではと思うのです。

ちなみにテーゲーとは“適当”、シムサは“仕方ない”と和訳できますが、ほかの都道府県の人たちや外国人であっても、適当なところもあるし、諦観な面もあるでしょう。我が沖縄県民がすごいのはこの二つの発想が合体して一種の行動パターンを形成するところにあります。一例として、テーゲーとシムサの例を挙げますのでご参照ください。

1950年、朝鮮戦争が起きて中共軍が国境を越えて介入、マッカーサーが、国境を越えて中共領土を空爆、全面戦争を仕かけるかどうか注目されていた時です。1951年3月24日、「国境ヲ越エテ中共本土攻撃モ辞セズ」と声明したのですが、たまたま空中状態が悪く“セズ”か“セリ”かが判読できない。ここからが亀甲(康吉)気性が頭を持ち上げてきて、マッカーサーのことだからと、比嘉憲蔵編集長がしぶるのを押して「爆撃セリ」と一面トップでデカデカと大誤報をしたのです。翌日比嘉編集長は米民政府に呼び出され、(沖縄ヘラルド)社は3日間かの新聞用紙の配給停止を食らわされたそうです。(中略)大誤報をやっても西銘(順治)社長に「シムさ(仕方ないさ)」と慰められてクビにされなかった亀甲さんや、福地さんにも、原稿を頼んだのですが、時が時だけに見送られました。(佐久田繁編著 『西銘順治研究』 序より)

黎明期の沖縄ヘラルド新聞のエピソードを抜粋しましたが、亀甲康吉さんの行動がまさに“テーゲー”で、それに対する西銘さんの態度が“シムサ”にあたります。終戦直後の沖縄の話ではありますが、現代人もウチアタイ(思い当たる)するはずです。具体的には“飲酒運転”で、この悪癖日本一の原因はテーゲーとシムサの発想でしか説明がつきません。

この発想は“なんくるないさー”とも違います。テーゲーとシムサの最悪なところは「反省能力の欠如」につながる点です。つまり失敗をとことん追及し、過ちから学ぶという発想が希薄になるのです。選挙違反の頻発がまさにそれに該当しますし、例を挙げろといったら枚挙に暇がありません。そして県内外で成功している県民は例外なくテーゲーとシムサの発想から最も遠ざかった人たちと見做して間違いないでしょう。

最後に、このテーゲーとシムサの観念を歴史的に追及するともしかしたら「琉球民族のモデル」が誕生するかもしれませんね。つまり「琉球民族は歴史上存在していた」ことの有力な証拠になるでしょうが、その証明がはたして現在の沖縄県民にとって名誉なことか、極めて疑問に思わざるを得ません(終わり)。

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