あいろむノート – 方言札(6)

(続き)今回は、アメリカ世時代の教育現場における「方言札」の運用について、新崎盛暉(あらさき・もりてる)先生の証言を紹介します。戦後の方言札運用について、ブログ主も伝聞ベースでは知ってましたが、それでも新崎先生の証言内容には驚きを覚えましたので、証言全文を紹介します(以下証言)。

司会 今度は社会学の立場から、新崎先生どうぞ一言論評を加えて下さい。

新崎 僕が一番関心があったことは、方言論争に関して色々と論じている人たちが、戦後の問題と戦前の問題をややもすると切り離して論じているんじゃあないか、という気がしたことです……。

僕が戦後沖縄に一番最初に来たのが一九五九年。すでに全島一周の観光バスがあった。その時、辺戸岬あたりに行った時だったと思うが、大きな松の木に「みんなそろって(一家そろって)標準語(共通語)」と書かれた看板があったのが印象的であった。それがあちこちにあった。

そのあとで、いわゆる方言論争の問題を僕なんかは智識として知るわけです。さらにその後で、戦後においても方言札があちことにあったという事実に気づくわけです。

それで、例えば方言札が戦前、強制的に上から下ろされてきている、とういうことがあったとすると、戦後、日本の国家権力が沖縄に及ばなくなって、アメリカ支配となって、教科書を英語で作るとか、ウチナーグチ(沖縄口)で作るとかという問題から戦後が出発する中で、なぜ方言札があちらこちらに復活してきたのか、ということに非常に強い関心をもったわけです。戦前と戦後の連続性みたいなものをどうしても考えざるを得なくなった。例えば、戦後の復帰運動をリードしていくのは沖縄教職員会とか、そういうことになると思いますけれども、その中でやはり標準語励行というか、学校で方言札を使っても日本語を普及していこうとしたのも教員であったし、その教員と復帰運動の指導者は多分一緒であって……。ですから方言論争が一つの時代の特殊な現象ではなく、まさに現在までつながってきて……。

当時の時代的状況をきちんと追体験してみないと、現在の状況からそれを判断すると大きな間違いを犯すんじゃないか。例えば、方言論争が皇民化教育と関連して大きく取上げられるのは、日本復帰が近づいてからのような気がしているんです。系統的な調査はしていませんが、方言札は、一九六〇年代の半ば頃まで、つまり日本政府が返還政策を取上げる一九六五年前後までは、各地にあった。僕の知っている範囲では、宮古とその周辺離島、それから沖縄本島の中部から北部にかけてはかなり方言札が使われたいた事実があるのですね〔「ラジオ沖縄」提供 – 座談会 方言論争を究明する(昭和60年4月3日)より抜粋〕。

さすが新崎先生、非常に鋭いところを衝いているなとの印象です。新崎先生に限らず座談会に出席した外間守善先生、新里恵二先生も方言論争については極めて冷静な意見を述べてますが、よくよく考えてみると方言論争の当事者である吉田嗣延さんの前では(現代のSNS上での “お気持ち表明” とは違って)迂闊なこと言えるわけがありません。

ここでブログ主なりにアメリカ世時代の教育現場による「標準語教育」について説明すると、昭和27年(1952)4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効により、日本による沖縄の潜在主権が認められた時点から、(将来の復帰に向けて)琉球住民の子弟に対し「日本人」としての教育を施すとの線が確定したのが始まりです。

そして当時の教育者が一番恐れたのが「英語の公用語化」でした。「米軍の英語教育への執念は、沖縄を半永久的に支配し続けようとの意図のあらわれといえるだろう。私たちも、英語の重要性は承知していた。しかし、日本国民としての教育を守り、復帰に備えて教育制度は本土と同じにしておく、との線は譲れなかった。(『屋良朝苗回顧録』61㌻)」との屋良さんの証言どおり、沖縄教職員会を中心に、教育現場で “復帰運動の核” として標準語教育が行なわれていった実情があります。

※ちなみに教育現場における復帰運動のもう一つの “核” は「日の丸掲揚」です。

それに加えて、アメリカ世の特徴のひとつに、家庭内において自主的に「標準語を使おう」との動きが起ります。具体的には戦後生まれの世代に対し、父母や祖父母たちが意図的に「標準語」でコミュニケーションを取るケースが増えたのです。しかもその動きラジオとテレビの普及により加速され、復帰前後には「ヤーナレードフカナレー」の諺通り、戦前の沖縄県人とは比較にならない程、琉球住民の標準語コミュ力は格段にレベルアップしたのです。

特筆すべきは、アメリカ世時代の琉球における「標準語教育」に対し、日本政府は全くの無力だった点です。つまり教育現場だけでなく、地域や家庭内も含めて “自発的” に標準語励行運動が行なれた結果、「方言」は急速に廃れていったわけです。

そして、新崎先生も指摘しているとおり、標準語のコミュニケーション力に問題がなくなった復帰前後から、「方言論争が皇民化教育と関連して大きく取上げられるのは、日本復帰が近づいてからのような気がしているんです」との興味深い “歴史解釈” が唱えられるようになります。次回はこの点も含めて方言論争についてブログ主なりのまとめをアップします(続く)。

SNSでもご購読できます。