ある有名な野球選手の兄弟がいまして

ご存じのとおり当運営ブログでは、今年の4月21日から「ロックとコザ」の川満勝弘編(愛称:カッちゃん)を不定期連載しています。ただし、カッちゃんの証言は時系列があいまいなところがあるので、これまた不定期ながら沖縄県立図書館に出向いて、裏付け史料を集めています。その際についうっかり沖縄ヤクザなど複数のじわじわくる記事を発見したりするわけですが、今回は「ロックとコザ」の喜屋武幸雄編からきわめて興味深い証言と、その裏付け(らしい)史料を見つけましたので、(時効だからいいだろうと思いつつ)当ブログにて紹介します。

それは「ヤクザ戦争とミュージシャン」と題した箇所で、ウィスパーズ時代(1964~1969)の波の上で起こったエピソードですが、その中に登場する人物に強い興味を覚えたので、該当箇所を書き写しました。読者の皆様、是非ご参照ください。

(中略)カッちゃんと私と(外間)勉は一緒に波之上の「ハーバーライト」でプレイ(演奏)していました。今はわからないでしょうが、波之上はすごいところでした。昔は今のディスコなど比じゃないくらい、たくさんの客がいるわけです。

当時はヤクザ戦争があって、そこで我々が演奏していたら、変なヒジ・バーバー(髭をたくさんはやした)おじさんグヮーが私たちのところに来て「何とか何とかやりなさい」といっているのですが(演奏が)大きな音だから聞こえないのです。「ヤナ、タンメー・グヮー・ヤ(いやなおじさんだな)」と思いながらそのまま演奏していたのです。

するとまた何かいっているのです。聞かんふりしていたら、足がバーンと私の顔面に跳んできたわけです。「あっ、この野郎」と思って、「この、ヤナ・タンメー・グヮー、おまえ」と手を捕まえたら、何とこの辺のヤクザの大幹部なのです。そうしたらドタドタドタとみんな集まって来てしまったのです。「あー、しまった。参ったなー」と思ったときにはお客さんもマネージャーもみんないなくなってしまい、バンドだけになってしまったのです。もう謝る一方で、カッちゃんや私たちメンバーの五人は真っ青になりました。

すると

ある有名な野球選手の兄弟がいまして、この人も半分 (`_´メ) で

「この人は誰々ね、これとつき合った方がいい、そしたら絶対にマイナスにならない、プラスになる」とかいわれて、(`_´メ) とつき合ってプラスになるわけがないと思っていましたが「はい、はい」といっているわけです。すると「網走番外地やれ」といわれて、ロックミュージシャンが「網走番外地」なんてできるわけがありません。「ナラン・バーイ(できないのか)」というのです。

そしてボーイを一人捕まえて、(`_´メ) は必ず「スカッチ・ワーラー、ムッチ・クワー(スカッチワーラーを持ってこい)」と。そして持ってきたらその人は「ウレー、スカッチ・ワーラー・ヤ・アラン、(これはスカッチワーラーじゃない)ばかやろう」と、もうボーイも真っ青です。大きな中に私たちは囲まれて相手はドーンといるわけです。すると「アンシー・ネー・ヨー(そしたらよ)、『朝日のあたる家』やりなさい」といわれました。「ジ・アニマルズ」の「朝日のあたる家」です。「あー、これできます。わかりました」といって演奏をしました。しかし客は誰もいなくて、目の前には(`_´メ) しかいないわけです。(`_´メ) が足を組んで座っていて「スカッチ・ワーラー持ってこい」といっているわけです。真っ青になりながら「朝日のあたる家」をずっと弾いていました。終わったらもう一回というのです。それで何か話しているわけです。終わったらまたやりなさいといわれて、何回も「朝日のあたる家」を演奏し、時間は夜中の三時ぐらいまででした。

和気あいあいとその(`_´メ) の話が終わったのですが、そしたら「おい、おまえたちご苦労だった、じゃー今度は安謝のアジトに行くから来い」といわれて「いや、もう帰してください」といったのですが「アラン、クーロー・ンレー、チカラン・バーイ(ちがう、来いっていっているだろ、きけないのか)」といわれて結局、安謝へ行ったのです。まあ今でいうマンションなのですが、そこには白いピアノが置いてあるわけです。(`_´メ) の女で、十七、八歳のハーフの子がいました。そしてそこに行ってまた「朝日のあたる家」です。終わって「あー、ご苦労だった、トー・トー、アヌ・ヤー・ウマヌ(あのなーそこの)押し入れンカイ、封筒ガ・アクトゥ、アマカラ・フクル・グヮー、ティーチ・トゥッティ・クヮー(あそこから袋を一つ取ってこい)」といわれて「いやー」とかいっていると、「アイ、トゥッティ・クワ・ローン・デェー(取って来いっていっているだろ)」といわれ「はいはい、行きます」といって、ガラッとその押し入れを開けてみると、(`_´メ) 戦争真っ只中ですので機関銃から手榴弾からみんなあるわけです。そしてその中には袋もいっぱいあるわけです。袋を一つ持ってきたら、何万ドルと入っていていわゆる軍資金です。一束20ドル札が何束もあり、1万ドルぐらいはあったと思います。「持って行きなさい」といわれて「いいや、もう要りませんよ、私たちは要りません」とカッちゃんからみんな真っ青なわけです。すると一人が「ダー、アンシー・ネー(それじゃあ)」と、

あの野球選手の兄弟の人が

お金を抜いて「おい、これティイチ、チュイ・サーン・カイ20ドル(これひとつ、一人につき20ドルあげるさ)」と「朝日のあたる家」で、それぞれ20ドルずつもらってみんなで帰ってきました。(下略)

補足すると、このエピソードはおそらく昭和42年(1967)ごろの、沖縄におけるアシバーたちの抗争が最も激しかった第三次沖縄抗争最中の出来事かと思われます。なお文中に登場する大幹部は、安謝にアジトを構えている記述から、大雑把ではありますが誰のことか想像つきます。

ただし、今回はそれは置いといて、やはり「ある有名な野球選手の兄弟」の記述が一番気になります。ちなみにアメリカ世時代の沖縄で一番有名な野球選手って、ハッキリ言って一人しかいませんが、その有名選手の写真が昭和44年(1969)1月1日付琉球新報正月号第三集1面に掲載されてましたので、参考までに紹介します。なお、当時を知る高齢者たちにこのエピソードを話したところ

「誰も否定しなかった」ところにじわじわきたのは内緒でお願いします。

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