かつて聖域が存在していたお話

以前ブログ主は、”我が沖縄社会の犯罪統計を調べてみた結果”の記事の中で

”我が沖縄社会においてヤクザが誕生するチャンスはアメリカ世の1945~1965年の20年だけである”

と断言しましたが、今回その理由のひとつについて言及します。昭和40(1965)年4月25日付琉球新報7面に”模合崩れ”に関する小さな記事が掲載されていました。ただしその内容は頗る重要なので全文を書き写しました。読者のみなさん是非ご参照ください。

前市会議員を送検 – 模合を前取り、本土に逃走

那覇署はゴロゴロ模合を前取りし、本土に逃走している那覇市牧志町二の三三五、前那覇市会議員名城嗣夫(四三)を調べていたが、二十五日中央巡検に詐欺罪で事件送致した。

送致書によると名城は六二年六月十二日から那覇市牧志町一の二九〇、長崎忠秀さんらとともに一口五百㌦、三十三口の月頼母子を発足、三回目に落札し一万三千㌦を受け取ったあと、六三年七月十二日十四回分の七千㌦を支払ったが残りの十八回分総計九千㌦を支払わず、本土に高飛びしたもの。長崎さんらの告発で、那覇署では調べをはじめていたが、名城は昨年四月本土に高飛びしていることがわかり、同署では沖縄と本土間に司法共助法が成立していないことから名城の帰りをまっていた。しかし二十五日まで帰らないため、文書だけで事件送致した。(中略)

一読して内容はお分かりかと思いますが、元那覇市会議員さんが模合金を先取りしたあと本土に逃げたというお話です。いまも昔も我が沖縄では”模合崩れ”は言語道断の案件であり、お金も信用も一瞬にして失う鬼畜極まりない所業です。

だがしかし、この話で一番重要なのは

沖縄と本土間に司法共助法が成立していない

の件で、実はこのことがアメリカ世における犯罪発生率の増加、および組織暴力の助長と密接に関連していたのです。上記記事の続きもご参照ください。

司法共助法とは犯罪者が国外に逃走したとき、その国に捜査を依頼したり、直接逮捕に向かうことができるような司法上の協定で、これまで沖縄と本土間に共助法が成立していないため、犯罪者が本土に高飛びした場合、沖縄の司法権ではどうすることもできず、これまで、たびたび問題となった。名城の場合も那覇署としては沖縄への帰りをまつだけで、もし名城がずっと沖縄に帰らない場合には事件は成立しないということになる。

引用:昭和40(1965)年4月25日付琉球新報7面

ブログ主はこの記事を読んだときに、なぜ米国民政府は昭和31(1956)年から瀬長亀次郎さんに対して本土への渡航拒否の措置を取ったかが理解できました。彼は昭和29(1954)年7月ごろにCIC(米国対敵諜報部隊)によって日本共産党との関りを突き止められてます。仮に瀬長さんが沖縄で事件を起こして本土に逃げた場合、琉球警察は法的な問題で彼の身柄を拘束できません。だから沖縄に閉じ込めざるを得なかったのです。

昭和40(1965)年2月に旧美里村吉原で起こった殺人未遂事件の実行犯と目された人物(上原秀吉)は、事件のあとすぐに本土に高飛びしていますし、以前当ブログで紹介した”極南会”の組織の中にも”救護班(本土に高飛びさせる目的で設置)”がありました。当時の犯罪者にとって日本本土はまさに”聖域”であって、そのことが結果として沖縄のアシバー業界に極めて有利に働きます。

だがしかし、この聖域も昭和40(1965)年12月で消滅します。同年8月29日、宜野湾市普天間で起こった山原派と泡瀬派の対立で、泡瀬派組員が刺殺される事件が発生します。その事件の実行犯2人は同年12月21日、潜伏先の大阪市で大阪府警捜査四課員に逮捕されます。そしてその後、大阪府警の取り締まりを受けたあと、大阪地裁に事件送致されて本土で裁判を受けたのです。

この事例が実質的な司法共助の前例となって、日本本土の聖域化が崩されたのです。そして2年後の昭和42(1967)年10月に瀬長亀次郎さんが本土に渡航できるようになります。いささが強引ですが、沖縄アシバーたちのやらかしが結果として瀬長さんの本土への渡航拒否解除に繋がるあたりに琉球・沖縄の歴史の面白さがあると実感したブログ主であります(終わり)。

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