オキナワンロックの “黄昏”

すでにご存じのことかと思われますが、本日(25日)からFIBAバスケットボールワールドカップ2023の1次ラウンドが沖縄で開幕します。なお、この大会を契機に沖縄市は琉球ゴールデンキングスの本拠地としての認知度を世界中にアピールする機会を得たわけであり、ブログ主は大会が無事成功することを祈ってやみません。

ただし、この大会をきっかけにして、令和の沖縄社会では “コザ” の認知度が急速に消えるのではないかとの懸念もあります。そうなると困るのがコザの地名に依存して活動している輩であり、具体的にはオキナワン・ロックの面々たちです。実は彼らは80年代半ばから行政とタイアップして「愛と平和を語る」をお題目に地域活性化の一翼を担うべく、「ピースフル・ラブ・ロックフェスティバル」と題した大規模な野外フェスを継続開催しています。

ピースフルラブロックフェスティバルは昭和58年(1983)8月に恩納村の「沖縄グランドパーク野外ステージ」において、「紫」の復活コンサートとして開催されたのが最初ですが、行政が全面的にバックアップするようになったのは昭和60年(1985)の第三回目からです。当時の沖縄タイムスの特集記事「夏に燃える 沖縄のロック85」をチェックすると、桑江朝幸市長(当時、現市長の父)をはじめ、地域活性化の一環としてなんとしてもイベントを成功させようとの行政側の並々ならぬ意気込みがよく理解できます。

オキナワンロックの面々も、行政側の期待答えるべく、反体制のイメージを払拭することに全面協力します。その傍証として宮永英一さん(当時は「オキナワ」のボーカリスト)を紹介すると、

チビの愛称でおなじみの彼は、そのキャリアの豊富さとロックに対するポリシーの確かさで、沖縄ロックのコメンテーターとして各所で発言の機会を与えられてきた。「反体制の音楽のイメージが強いロックだが、いまやロックは音楽以外なにものでもない。決して破壊の音楽や騒音ではない。ロックの歌詞を聴いてごらん。愛や平和がテーマなんだ」

引用:昭和60年8月9日付沖縄タイムス16面「夏に燃える 中部のロック〈4〉」

参考までに、旧コザ地区を中心としたオキナワンロックの面々は、ベトナム戦争終結と昭和53年(1978)の円高を契機に “冬の時代” に突入し、活動の場が徐々に狭まれていた状況がありました。そして80年代に入って、野外コンサート(当時はフェスのことをコンサートと呼んでいた)が盛んになったのを契機に、行政とタイアップすることによって大胆なイメージチェンジを行い、彼ら自身の生き残り、および後継者を育成を試みたのは間違いありません。

だがしかし、その後のピースフルラブロックフェスティバルの変遷を見るにつれ、彼らのイメチェンはうまくいったとはとても思えません。実際に90年代にはいるとオキナワンロックは「米軍支配の抵抗の象徴」として取り扱われ、平成19年(2007)の「紫」の復活後は「オキナワンロックはカルチャーだ」のコンセプトでバンド活動をしているのが現状です。それはつまり80年代の「愛と平和がテーマのロック」のイメージが定着しなかった証なのです。

※なお、ピースフルラブロックフェスティバルからもオキナワンロックの “ニュースター” が誕生しなかった時点で後継者育成にも失敗しています。

ではなぜそうなったのでしょうか。その理由はいたって簡単で、愛と平和をテーマがお題目も

オキナワンロックの面々が愛と平和を語るには程遠い人種

であったからです。世界平和と戦争反対を叫びながら家庭内暴力をふるう著名な某平和活動家に通じるものがありますが、次回はオキナワンロックの全盛期である昭和40年から52年あたりまでの彼らの “実態” について言及します(続く)。

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