グロリア台風のお話

先月29日に非常に強い勢力で沖縄本島を通過した台風24号(チャーミー)は風害の凄さをまざまざと見せつける結果となりました。沖縄県民にとっての一番のダメージは広範囲で発生した停電で、ブログ主も今更ながら電気のありがたさを実感した次第であります。不幸中の幸いは現時点で死者が1人もいないことですが、これは沖縄社会のインフラ整備が万全である故の結果です。

今回は昭和24年(1949年)7月23日に沖縄本島を襲撃したグロリア台風について言及します。読者の皆さんぜひご参照下さい。

沖縄戦後最大の風害

グロリア台風 – たいふう 同名の台風が2回あった。1回目は1949年(昭和24)7月23日の昼過ぎから夜にかけて沖縄本島の南海上を北西進し久米島を通過した強い台風で、米軍*嘉手納基地では最大風速46.4m/s、最大瞬間風速64.5m/s、降水量98.3mmを観測。この猛烈な強風で沖縄諸島では死者38人、負傷者252人を出し、住家の全半壊3万929戸、公共建物の全壊555棟など、戦後最大の災害となる。米軍の施設や兵舎なども約50%が破壊された。

引用:『沖縄大百科事典』上巻1001㌻より抜粋。

『沖縄大百科事典』の引用を参照しても、グロリア台風が物凄い被害をもたらしたことが分かります。ちなみに最大風速とは風速計による10分間の平均風速の最大値ですが、嘉手納基地で計測された最大風速46.4m/sは時速換算すると167.04km/hとなりニューヨークヤンキースのチャップマン投手の剛速球に匹敵する暴風が吹き荒れたことになります。

瞬間最大風速64.5m/sは時速換算すると232.2km/hとなり(新幹線の平均速度に近い)、鉄柱が折れ曲がるレベルの暴風です。ちなみに先の台風24号の最大瞬間風速が南城市で計測された56.2m/sで、台風一過後の沖縄社会においては軽自動車が吹っ飛ぶ、信号がゆがむなどのトラブルが確認されました。我が家でも鉄柵が一部倒壊し風害のすさまじさを実感しましたが、昭和24年において台風24号以上の暴風が吹き荒れたことを考えると、グロリア台風が当時の住民を恐怖のどん底に陥れたことは疑いの余地がありません。

うるま新報の記事

家屋全壊一万六千余棟 – 風速六六米

グロリア台風沖繩中南部を猛襲

二十三日朝から荒れ始めたグロリア台風はぐん發表によると秒速六六米持続一五〇哩で本島上空に猛威を振い夕刻ようやくおさまつたが台ふう一過の惨状は眼を被わしめるものがあり復興面に大きな支障を來たしている、特に中心部に近い中南部に著しく、毎度の强風にゆさぶられて命且夕に迫つていたのと、日本ぐんの亂伐と戰火により山はすつかり丸裸にされ部落内の樹木石垣と取り拂われて防ふう前衛が消滅し强ふうの威力をじかに受けた事、地形等によつて被害を大きくし宜野灣村字宜野灣、三和村米須等は全滅の状態であり越來村では約三千の家屋數に對して全くわい一七二二、半くわい八六一と全村殆どがたいふうの無慈悲な洗れいを受けている。

引用:1949年8月1日うるま新報一面より抜粋。

昭和24年8月1日付の『うるま新報』は一面で大々的にグロリア台風の被害について報じています。当時の新聞をチェックすると民間の甚大な被害に加えてグロリア台風が軍施設にも大きな被害が生じたことと、沖縄民政府の建物が全壊したため知念(現南城市)から那覇への移転についても報じています。

ちなみに軍の被害は「死者1名、負傷16名、軍施設及び兵舎も損害約50%、次の4か所が特に被害が大きい、ライカム、3/4が破壊、ホワイトビーチ、シ桟橋が流出、天願キユエム50%破壊、泡瀬住宅地50%破壊(同新聞より抜粋)」とあり、米軍施設が壊滅的な被害を蒙ったことが分ります。その前後にも大きな台風が襲来(リビー台風、デラ台風)しており、グロリア台風は米軍がコンセットからコンクリート兵舎を建設するきっかけになった歴史的な災害とも言えます。

台風で政府の那覇移転実現

四九年七月二十三日のグロリヤ台風で知念高台の民政府のバトラーが風速四十三・八メートルで吹きとばされて、総務部、社会事業部、官房関係の書類は水浸しとなった。それをきっかけに、宿望の政府の那覇移転が実現することになったものである。石川から東恩納から知念の高台へと、沖縄民政府は軍政府の尻を追っかけるように転々と移ったのだが、沖縄の行政府の位置は離島との関係などからもどうしても那覇にもっていくべきだとして、それまでも折にふれ軍政府には要請したが、実現しなかったものである。那覇移動実現は全く風速四十三・八メートルの台風のおかげである(下略)。

引用:『当間重剛回想録』125㌻より抜粋。

当間重剛氏の回想録から沖縄民政府が知念から那覇に移転したいきさつが記載されてますが、「石川から東恩納から知念の高台へと、沖縄民政府は軍政府の尻を追っかけるように転々と移ったのだが……」との表現が琉球列島米国軍政府(以下米国軍政府)と沖縄民政府との関係を明示していて実に興味深いです。

グロリア台風の襲来によって、在沖米軍は施設の本格強化に乗り出し、沖縄民政府は那覇移転が実現します。とくに同年10月1日の中華人民共和国の成立と合わせて、この台風は米国軍政府の沖縄統治の方針に大きな影響を与えたと言っても過言ではありません。

逆に考えると、グロリア台風が大災害ではなく、かつ中国革命がとん挫したら在沖米軍が超絶強化されることもなく、もしかしたらサンフランシスコ講和条約で沖縄は早々と日本に復帰していたのかもしれません。由是観之(これによりてこれをみるに)隣国の政変に限らず自然災害も案外沖縄の歴史に大きな影響を与えていたと結論づけて今回の記事を終えます。


【参照】昭和24年8月1日付『うるま新報』

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