コザ暴動について プロローグ

12月に入ってから、我が沖縄のマスコミでは “コザ暴動” に関する報道数が著しく増えています。事件発生から今年で50年の節目にさまざまなイベントも開催され、事件に関する関心も高まっているように見受けられます。

ブログ主が意外に感じたのは、昭和55(1980)年12月20日の琉球新報では今日のようにコザ暴動を大々的に取り上げていなかったことです。事件発生から年月を経て、だんだん記事や特集が増えている感じですが、いまもむかしもコザ暴動に関してのは “アメリカに対する民衆の抵抗” の視点で語られており、ブログ主が確認した限り例外は見当たりません。

参考までにコザ暴動がなぜ毎年大きく取り上げられるかと言えば、以前の記事で言及したとおり、この事件には “復帰協” “新左翼” が絡んでいないからです。あと死者がひとりもでなかったことと、ランパート高等弁務官を本気で狼狽させた点があります。つまり “沖縄は差別されている” というお題目のなかでは極めて扱いやすい歴史的事件ゆえに、識者やマスコミが取り上げている傾向があります。

ただし、この事件は米軍に対する反感だけではなく、琉球政府、とくに屋良革新政権に対するコザ市民(当時)の鬱積した不満が爆発した側面も見逃せません。つまり “指桑罵槐(桑を指して槐を罵る)” の典型的なケースですが、今回はこの視点からコザ暴動に言及します。

昭和43(1968)年12月1日に屋良朝苗氏が琉球政府主席に正式就任し、この日から革新政権がスタートしますが、実はこの時点で行政府と支持団体の革新共闘会議(全軍労、沖縄教職員会など)との間に亀裂が入る事件が起こります。それは同月11月19日に嘉手納基地で発生した “B52戦略爆撃機” の爆発炎上事故です。この事件をきっかけに全軍労などでは翌年2月4日にゼネスト実施を公表しますが、屋良政権側は「B52は昭和44年7月ごろにタイに移駐するという “感触” を得られた」とゼネスト実施団体(県民の生命を守る県民共闘会議)に伝えて、ゼネストを回避することに成功します。

だがしかし、実際にB52が撤去されたのは昭和45(1970)年9月になってからで、この件で屋良主席は支持団体から猛烈な批判を浴びます。つまり屋良政権が支持団体に “二枚舌” を使った形になり、琉球政府の交渉能力に極めて疑問符が付く結末になります。

さらに亀裂が深まったのが、昭和44(1969)年11月22日の日米共同声明後の、在沖米軍基地の従業員の大量解雇案件です。屋良革新政権は米軍基地に関しては無条件全面返還を打ち出して当選した以上、米軍当局の基地縮小に伴う従業員の解雇には表だって反対できない立場でした。事実、同年12月3日の米国陸軍司令部による解雇通知(1900~2800人)に対して、屋良政権側は

琉球政府としては、これまで米軍基地に反対し、復帰の時までにその整理、縮小を要求してきたのであるから、この際、解雇の撤回を要求するのではなく、それを受け入れて、離職者の再就職や生活保護に重点を置いた対策を講じていきたい

引用元:宮里松正著『米国支配27年の回想 重要歴史年表1945~1972』

と記者会見でコメントしています。だがしかし、米軍の解雇通知と琉球政府の談話に対し、最大労組の全軍労と県労協が(当然ながら)猛烈に反発します。これが米軍基地従業員の解雇問題の始まりですが、この問題が結果として行政府と労組の対立を生み出し、労組側の屋良革新政権に対する不信・不満を決定的なものにしたのです。

不満なのは革新共闘会議だけではありません。基地依存度の高い当時のコザ市は、復帰後の経済の見通しが不透明なことに対し、(とくに業者などの経済界が)行政側に対し不満を抱いていたのです。つまり、昭和45年当時、屋良革新政権は保守・革新ともに不評を買っていたのです。(続く)

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