コザ騒動の “教訓” に目を向けなかった結果…

本日(20日)はコザ騒動が起きて52年目となります。50周年のイベントが(ブログ主から見て)不発&不評のせいか、今年はマスコミ等でもほとんど取り上げられていないように見受けられます。

いわば “用済み” にされた感が否めない歴史的出来事ですが、ブログ主が常に怪訝に思うのが、コザ騒動について事件の背景や本質を説く言動は非常に多いのですが、 “直接の原因” について誰も言及していない点です。

具体的には、「コザ騒動に至る社会的背景」ばかり語られているわけであり、たしかに当時の琉球住民の気持ちは理解できますが、事件から50年以上経過した今日においても、直接の原因に触れないのはいかがなものかと思わざるを得ません。

コザ騒動は、ご存じの通り、昭和45年(1970)12月20日1時15分頃、翁長某さん(39)が “道路を横断中” に米軍人(20)が運転する車にはねられたことがきっかけですが、改めて昭和45年当時の胡屋十字路の写真をチェックしたところ、事件現場と思わしき場所には「横断歩道」が設置されていないのです。

つまり、翁長某さんは、「横断歩道を渡る途中」ではなく「道路を横断中」にはねられたわけで、この事実が意味することは、当時の琉球社会における交通インフラの不足と、琉球住民および米軍人・軍属の交通マナーの悪さであり、それが事件の直接の原因となったのです。

なお、昭和45年は当時として最悪の交通事故による死者数を出してます。参考までに、同年12月11日付琉球新報朝刊9面全文を紹介します。ショッキングな案件ですが、是非ご参照ください。

ついに107人 / 交通事故死、史上最高とタイ

【西原】十日夕刻、西原村内で道路を横断中の八十四歳の老女が車にはねられ、即死するという事故があった。この事故でことしの全沖縄の交通事故による死者の数は百七人となった。この記録は一九五三年の史上最高と同数となったわけで、ことしもあますところ二十日だが、悲しい記録を更新することは確実となった。

老女はねられ即死 / 道路横断中、貨物車に西原町

十日午後六時半ごろ西原村字内間●●、M.Oさん(八四)は自宅近くの十三号線道路を横断中、中城方面から与那原向け運行中の那覇市字宇栄原●●●、建設請け負い業、Z.Y(三五)のピクアップにはねられた。Yは約十㍍先を小走りで横断していたMさんを発見、急ブレーキをかけたが間に合わず。Mさんに激突してボンネット上にはね上げ、約十㍍進んで路上に落とした。Mさんはさらに五㍍ほどはねとばされ、路面にたたきつけられて即死した。

Mさんはこの日隣部落の四男の家に遊びに行き、孫たちと過ごしての帰りに事故にあった。事故現場にはMさんのぞうりや血こんが飛び散り、事故の痛ましさを物語っていたYは「事故当時あたり一面がすっかり暗くなり、見通しが悪かった」といっている。Yは仕事からの帰りで、車には五人の同僚が乗っていたが、けが人はなかった。

ちなみに、翌12日には死者数の記録が更新されます。加害者が米軍車両のあたり、当時の社会を象徴していますが、実は死亡事故の共通点として「道路を横断」「見通しが悪い」が挙げられます。それはつまり、増加する車両に対して横断歩道や信号および街灯の設置が遅れていたことを意味し、交通インフラの未熟さが結果として史上最悪の死者数を出してしまったわけです。

これらの事実から、「横断歩道を渡る」という習慣が当時の琉球住民に根付いていなかったことも容易に察せられます。なので、コザ騒動の教訓として、

・交通インフラの充実

・琉球住民および米軍人・軍属の交通マナーの向上

が唱えられてもおかしくはないのですが、当時は全くと言っていいほど意識に上っていません。そして交通事故による死者数は更新され続け、

昭和48年(1973)には交通事故の死者数が史上最多の121人

との不名誉な記録を打ち立ててしまいます。(ちなみに現在は年間40人弱程度)

ブログ主はコザ騒動の案件を調べるうちに、この事件は本質や背景を訴えて、相手に共感を促すあまり、直接的な原因には目を向けなかった結果、社会に悪影響を及ぼしてしまった実例だと確信しました。そして辺野古のテント村騒動もそれに類するのですが、この点については次回詳しく言及します。

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