ソ連の裏と表 ⑿ – 政治犯は特殊収容所 – 昔は人も住まぬ大雪原

地の果て 政治犯を収容する特殊収容所は特に厳重に社会と隔離するため、都市や農村の近くを避け、僻地、極地に置かれている。私は四九年の春、インター地区の特殊収容所に送られた。ハバロフスク監獄以来二ヵ月の護送間、たった一人の同行者だった野口君と別れて私は労働適として地区の第一作業分所に送られた。インター地区はウラル山脈を西に超えてキーロフから北上したベチョラ河の下流にあって北緯六十八度の北極圏内にある。

ここでは毎日の日出、日没の時間差が甚だしく、六月の夏至の頃には太陽は頭上で傾斜した円を画いてグルグル回り、わずかに地平線にその端が接するだけで沈むことなしに、またゆるやかに昇ってくる。つまり太陽の沈まない、二十四時間昼間だけという珍現象があらわれる。夜のない世界というのは、うす気味悪いもので、最初の夏はキツネにでも化かされた様に不気味に思われた。反対に十二月の冬至の頃には太陽の全然見えない、夜だけの世界がやってくる。太陽は出ないが、十二時前後にほの明るい月夜程の明るさが二時間つづいてまたすぐ暗くなる。

その頃の気温は零下六十度位に下がるが、五十度を超えると不思議に風は全くなくなるから身体こたえる寒さは、零下四十度位でも風の強い時の方がたまらない。奇麗なオーロラが見えるのもこの頃である。零下六十度の寒気というのは、一寸表現のしようもない。地上のすべてのものが凍る。地下三米位迄は永久凍土で夏にはわずかにその表面五十糎位がとける程度である。山も海も人家も見えない見わたす限りの大雪原の静寂の中に、ヒシヒシとせまる寒気だけが古い毛皮の外套を通し、夏に肌をまとった綿衣を貫いて身を刺すような時は、地球上のすべての物音すら凍って了まったような錯覚にとらわれる。そして音なき音が聞える感じがする。

金属製のものは素手では絶対に握れない。握った瞬間に凍り付いてしまう。無理に手をもぎ取ろうとすれば肉ごとはがれてしまう。いくらもの好きでも戸外のランデーブでキッスなどはうっかり出来ない。唇と唇とが仲良くくっついたままになってしまう。いわんやそれ以上の欲を出したら大変なことになる。

とにかく水気が一番危険だということを知らねばならない。体内にある時は体温でたもたれている液体は体外に排出されると直ちに凍るからである。身を焦がす戀の情熱も大自然には勝てない。寒い所で便利なことは便所の掃除だけである。山に積んで凍ったヤツを棒やツルハシでくずして、手で抱きあげてトラックに積込んで捨てにいく。臭もなければ身体につく事もない綺麗なものである。十二米の大きな鉄道レールでも、タガネで少しキズを入れ、クランで二米持ち上げて落せばポキンと見事に思う所から切断することが出来る。凍っているからである。

冬はここでは地上の仕事は出来ない。だいたいこの地方は数十年前迄は人間の住所ではないとされていた。木も草も育たない、鳥も飛ばない所である。地下に石炭が発見されてから、石炭採掘の為に囚人を送り込んだのが今から二十年程前だそうだ。囚人達の手に依って、現在ではソ連でも主要な炭田として開発され、大きな炭坑が沢山建設されている。今でもこの辺に住む人達は囚人と強制移住者だけである。短期間しかない夏期中に地上の設営をあわただしくやって冬は地下二百米から八百米位までの炭坑で石炭を採掘する。

ロシア人に「一体夏は何ヵ月あるのか?」と聞くと、「此処では一年の中、十二ヵ月が冬で残りの月が夏だ」と答えて呉れたのには私も成程と感心した。私が行った頃はこんな極地にも鉄道が敷かれていた。此の鉄道建設には枕木一本毎に囚人の生命が犠牲にされたという。ウラルの山々がカスカに見える天気の時は、彼の山の向うには人の住む世界があるそうな、とたまらない郷愁を感じたものだった。(1957年5月11日付沖縄タイムス夕刊4面)

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