久高島印象記 (1)- 又吉康和

 それは各間切に諸按司が城を築き、石垣を高くして兵火のえない昔のことであつた。玉城間切は百名村(今の玉城村字百名)に白樽と云ふ一人の若い男が居た。此の男は性質温厚篤実で、從つて親に孝友と交つて信、常に自分の良心に從つて惡を斥け善事を爲した爲め、間切内の人氣者であつた。それで領主玉城按司のお目がねに叶ひ、若按司鬼武能の姫の婿に選ばれて目出度夫婦となつた。白樽は世の幸を一身に集めた故に、他若者達から羨望の的となつた。

然し彼れは按司の女婿たるの故を以て幸とは思はなかつた、其の愛すべき妻と互いに愛し合ひ、理解し合ひ、共働し合ふことを無上の幸とした。そして彼れは二人の幸を創造せんと念じた。併し干戈打續(かんかうちつづく)此の地には彼れ等の理想とする幸は望むべくもなかつた。

或る日白樽は其の愛妻と共に山に登り、廣々とした景色を眺めた、西の方は諸雄互に覇を爭ふて居る諸間切が續いて居た。東の方は渺茫(びょうぼう)る大洋が限なく天涯まで擴つて居た。彼れは此渺茫たる大洋に眺め入つた。其の時特に彼れの心を捉へた霧のやうな小島が波間に隱見した。彼れは更に快晴の日再びそれを確める爲め山に登つた、それは疑ひもなく小さい美しい島であつた。距離も左程遠くはなかつた。

二 此の可憐な島を發見した白樽の心は躍つた、眠は希望に輝いた。人間の幸福を無茶苦茶にして顧ない此の兵亂より脱し、愛人と共に平和の天地に徜徉(しょうよう)するの惠れたのを彼れは心から天に謝した。そこで彼れは愛妻に相談した、彼女も非常に喜んでくれたので、二人は丸木舟に乘つて島へ渡つた。島は餘り遠くなかつたので間もなく着いた。(創造生活に對する生命の躍動と人間至上の幸福を求める心が全身に燃えた人にあらざれば、そして相愛の夫婦でない限りは斯る冒險は敢行し得なかつたであらう。本文の記者は此の點に深い興味を持つものである)。

彼れ等は舟を岸に繫いで上陸した。そして島内を巡つて見た。泉甘まく、土地肥え、山野も廣々としてゐた、夫婦は非常に喜び永住の覺悟で直に家を建てた、無論食物はないので海岸に出て貝類を拾つて食べた。或る日夫婦は相携へて伊敷泊の靈地に參詣した。そして食物豊饒子孫繁昌を祈願をした。其の時海の彼方より一ツの白壺が波に搖られながら滿潮に流れて來た。白樽衣の裾をからげて取らうとしたら、其の白壺は波底深く沈んで了つた。彼れの妻は何か感したものゝ如く屋久留川に齋戒沐浴してさつぱりした衣に改め、以前の濱に行き袖を廣けて白壺を待ち受けたら、彼白壺は自ら浮んで來て彼女の袂にかゝつた。彼の女大に喜び、壺を抱き取つた、蓋を開いて見たら其の中に麥三種(大麥、小麥、裸麥)粟三種(佐久粟、餅粟、和佐粟)豆一種(小豆)が這入つて居た。之れを古間口の地に蒔いたら正月に至つて穂を出したが尋常の麥と甚だ異つて居た。白樽奇異に思ひ、朝庭に献した。二月に至り其の麥旣に熟したので吉日を選んで、其の成熟した麥を再び獻上した所王非常に喜び給ひ、澤山の褒美を戴き面目を施した。王は庖人に命して神酒を造らしめ各所の御森に祭し、次に諸役人に賜ふた。是れから海島五穀豊饒子孫繁昌し、終に村を成すに至つた、之れ即ち久高島である。(沖繩敎育 – 大正十三年六月一日発行より続く)

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