二代目聞得大君の謎 – その2

(続き)今回は二代目の峯間聞得大君について考察しますが、彼女の存在は史料上で二例確認することができます。一つが18世紀初期ごろに編纂されたと考えられる『女官御双紙(にょかんおそうし)』、もう一つが向氏家譜(小禄家)の一世浦添朝満(うらそえ ちょうまん)の項です。

※実は「峯間」の読み方が伝わっていないため、とりあえず日本語の「みねま」のフリガナを宛てておきます。

ちなみに家譜によると、彼女は父朝満と母思乙金(泊の豪族の娘)の長女として記されており、該当の項をブログ主が意訳すると「生年月日と童名不明、1577年に亡くなる。号は梅南」となりましょうか(原文は下記参照)

長女峯間聞得大君童名生日不傳萬暦五年丁丑九月二十七卒壽號梅南

ただし、家譜の記述通りだと、いくつかの矛盾が生じてきます。まず、彼女の父朝満は記録上、正徳三年(1508)に廃嫡の憂き目に遭いますが、そうなると二代目の彼女は最高神職として、しかも父親が(首里から排斥され)浦添に蟄居している状態にもかかわらず、叔父の尚清王を “マンセー” しなければならないのです。

おなり神信仰(姉妹の霊力を持って兄〔あるいは弟〕を守護する)から見ても、彼女の二代目就任はありえませんし、何より家譜の記述を信用すると、峯間は慈山(佐司笠按司加那志)に比べると “格下” もいいところなので、彼女が慈山を差し置いて聞得大君への就任できる訳ありません。

具体的に説明すると、慈山は父尚眞王、母銘苅子(天女の娘)という当時としては考えられる限り最強の「血統」に対し、峯間は父朝満(尚眞王長男)ですが母は泊の豪族(花城親方宗儀)の娘であり、父はともかく母は「神」とは無関係の血筋なのです。

にも拘わらず、峯間が二代目聞得大君に就任したのは、考えられる理由はただ一つ、

実は、血統的に慈山より “格上” だった。

はっきり言って、これしかありません。(続き)

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