二代目聞得大君の謎 – その3

(続き)前回の記事において、系譜上では浦添朝満の長女である峯間(聞得大君)が、血統的に慈山より格上だったとの仮説を提示しましたが、今回はこの点に関して、ブログ主なりに調子に乗って説明します。

今回の案件を調べるうちに、実は思わぬ盲点に気が付かされたのですが、それは「おなり神信仰と神女の女系継承は必ずしも両立しない」点です。というのも、りうきうの神女は「母→娘」の継承が大前提であり、15~16世紀当時は、神女の格を問わず、聞得大君も例外ではなかったと考えられるからです。

そうなると、おぎやか(御近)を祖とする尚眞王(権力)と音智殿茂金(おとちどのもいがね・聞得大君)の関係は、たしかに初代に限りおなり神信仰の構図が成り立ちますが、継承に関しては王位(権力)は男系、聞得大君(権威)は女系を原則して、りうきうの統治を志向したのではと推測されます。

※参考までに慈山が二代目になると、聞得大君は「男系継承」になってしまいます。

ちなみに、聞得大君の “独身制” はブログ主がチェックした限り、史料上での確固たる証拠が見当たりません。仮に独身制を堅持すると、神女の女系継承は成り立ちませんし、何より三代目と四代目の聞得大君は既婚者なので、そんな制度は最初からなかったと考えるのが自然です。

となると、慈山を越える最強の血統は、

おぎやか(御近)→おとちどのもいがね(音智殿茂金)→娘

の直系以外ありえませんし、誤解を恐れずにはっきり申し上げると、峯間は初代が “神の力” を持って誕生させた実の娘なのです。

そしてもう一つ、峯間には注目すべき史料があります。浦添朝満の家譜によると、

〔尚清世代〕嘉靖十九年庚子卒。月浦と號し浦添極樂陵に葬る。尚清王追慕に堪えず先王の葬礼を持って霊骨を玉陵に遷す。長女峯間聞得大君と一厨子に葬る。

とあり、意訳すると「1540年(浦添朝満)亡くなる。月浦と号し浦添極楽陵に葬られたらが、後に尚清王によって遺骨が玉陵に遷された。そして長女峯間も(遺骨が)同じ厨子甕に納められた」になりましょうか。ちなみに峯間の死亡年月は1577年なので、尚永王(在位1573~1588)時代に遺骨が(浦添朝満の)厨子に納められたと思われます。

ここでピンとくる読者もいらっしゃるかと思われますが、父娘の遺骨が同じ厨子甕に納められることはありえるのかとの疑問が湧いてきます。なぜなら、我が沖縄では夫婦の遺骨が同じ厨子甕に納められるのが大原則だからです。

ここまで説明すればお分かりかと思われますが、現存している家譜の記述とは異なり、峯間の正体は「おぎやか(御近)の嫡孫、おとちとのもいかね(音智殿茂金)の実娘であり、浦添朝満の “夫人” であった」と考えられるのです。

この仮説はあくまでブログ主の “作文” なので、あまり大げさに捉える必要はありません。「エビデンスがない勝手な妄想」と一蹴される程度のものですが、ただしこの仮説が真実だった場合、第二尚氏は尚円→尚宣威の二代で終了、そしておぎやか(御近)を祖とする権力と権威が共存する新王朝が誕生したことを意味するため、りうきう歴史学会では手が付けられない案件になります。

最後に、峯間は聞得大君の歴史上、最も業績を残した人物かもしれません。ブログ主が推測する彼女の実績は、

・おもろそうしの編集(1531)にかかわった。

・尚清、尚元の二代の王の百果報事のイベントを無事成功させた。

となり、つまり初代が敷いたレールを二代目が完成させた偉大な人物と考えているからです。この点は機会があれば後日言及することにして、今回はこれでいったん記事を〆ます。

 

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