人民中国への道 – 序章

歴史の発展を測る時間の単位は、人類史の発展とともに縮まってきている。旧石器時代にそれが万年であったとすると新石器時代には千年になり、歴史時代に入ると、数百年・百年・五十年・三十年と短くなっている。歴史の「進歩」への不信が広がる今日ではあるが、単位を一つ大きくとれば、歴史の前進が、それも英雄・天才の指揮棒によってではなく、無名の民衆の力量の成長によって達成されていることが知れよう。

本書の主題からして、日本の事例にはふれまい。中国のばあい、アヘン戦争で人口四億の大清帝国を屈服させたイギリスの武力は、最高時、「黒船」百隻・陸軍一万五千人であった。越南=ベトナム王国を征服するのに投入されたフランス軍は、おなじく数千人にすぎない。それが一世紀を経過すると、中国人民は百万の日本軍の侵略をはね返し、ベトナム人民は五四万の地上兵力と当時世界最大の海軍・空軍をもってするアメリカの侵略と16年間戦いぬき、みごとにこれを撃退した。両国人民の民族的力量の進歩は歴然としているではないか。

19世紀、欧米資本主義の侵略を受けた東アジアでは、日本だけが資本主義的自立をなしとげ、中国は半植民地、ベトナム・朝鮮は植民地の境遇に沈淪した。それにはそれぞれの民族の内的発展の程度、文化的伝統の軽重、国際環境など複雑な要因が作用しているが、それはここでは論じない。ただ早い時期に自立した日本にくらべ、時期がおくれればおくれるほど自立達成の条件は困難になったことだけはまちがいない。

欧米列強に加えて近隣の日本が圧迫側に回ったことも大きいが、単純に侵略側の武力一つをとってみても、黒船・大筒の段階から砲艦・大砲、戦車・飛行機、ジェット機・ナパーム・ミサイルと飛躍的に強化されている。そしてそれはまた資本力・工業力の格差の圧倒的拡大の象徴でもあった。明治維新の日本のように、中間階層が民衆の反抗・闘争を利用しつつ旧権力を打倒し、新支配階級として民衆を押えこむ、といった形では、帝国主義時代に自立できるだけの民族的力量の結果はもはや不可能になったのである。また最底辺の人民の自覚的エネルギーを組織し、動員することは、それ自身が搾取者・圧迫者である中間階級=ブルジョアジーには不可能なことでもあった。

だが、帝国主義の経済侵略は、封建主義の分割支配のもとで「散砂」のごとき存在をよぎなくされている民衆を、一つの共通の運命のもとに結びつける。いわゆる国民国家のナショナリズムが、上昇期の資本主義の利益誘導をもふくめて上から注入される栄光への連帯意識であるとすれば、被圧迫民族のそれは受難の連帯・抵抗の連帯を通じて下から育つのである。ただ農民を主体とする民衆の階級的・歴史的制約から、その巨大なエネルギーはしばしば短絡的・衝動的に放散し、持続的・系統的な力となりえなかった。それを可能にしたのは、私心なく農民と同盟できる労働者階級とその真の前衛組織の指導があったばあいだけであった。中国革命とインドシナ革命がその実証である。ただそれは無数の試行錯誤を重ね、莫大な犠牲を捧げてかちとった歴史的真実だったのである。

「歴史はあらゆる女神の中でも恐らく最も残忍な女神であろう。戦争と限らず、『平和』な経済的発展においても、この女神は死骸の山を越えて勝利の戦車を引いて行く。残念なことに、男女を問わず、われわれは非常に愚かなので、言語に絶した苦しみに堪えかねるまでは真実の進歩のために勇気を振い起こそうとはしない」。エンゲルスのダニエルソン宛ての手紙の一節が身につまされて想起される。

中国の首都北京の中心、天安門広場には、高さ38メートルの人民英雄記念碑が屹立する。1949年9月30日、中華人民共和国の樹立を決定した政治協商会議の代表たちは、建国の大典を翌日に控えて、この記念碑の定礎式をおこなった。正面の題辞は毛沢東の書であるが、背面には周恩来の字で次のようなことばが嵌められている。

三年来、人民解放戦争と人民革命のなかで犠牲となった人民の英雄たちよ、永遠なれ。

三十年来、人民解放戦争と人民革命のなかで犠牲となった人民の英雄たちよ、永遠となれ。

さらに1840年まで遡って、以来国内外の敵に反対し、民族の独立と人民の自由・幸福をかちとるために、かずかずの闘争のなかで犠牲となった人民の英雄たちよ、永遠なれ。

三年来とは1946年から49年の国共内戦をさし、30年来とは五四運動以来、いわゆる新民主主義革命をさし、1840年このかたとは、アヘン戦争以後、いわゆる旧民主主義革命期をいうのである。「人民中国の道」は鮮紅の血で敷きつめられている。それは中国の人びとの偽らぬ実感であるにちがいない。そしてそのかなりの部分の責任が、いや量的には最大部分の責任が、以下の各章で述べるように日本軍国主義・帝国主義にあることを、われわれは留意すべきである。

日本政府は、1945年の敗戦後も、中国民衆にたいする敵視政策を一貫して続けた。日本が中華人民共和国を中国の正統政府として承認し、国交を回復したのは1972年になってからであった。しかもそのさい、中国政府は両国人民の友好のために、あえて戦争賠償の請求を放棄することを宣言した。賠償の負担が最終的にはすべて人民の肩にかかることは、中国人民がみずからの体験として熟知するところだったからである。帝国主義日本は軍事的にだけでなく論理的・道義的にも中国民族に完敗した。

過去の不幸な歴史は千万言の「懺悔」をもってしても消すことはできない。これを償う道は互恵平等の友好関係を将来にわたって確立することにしかない。そして両国人民の正常な関係のありようは、不幸な歴史を反面の教材とするなかでおのずから明らかになろう(講談社現代新書 – 1977年5月30日第一刷発行)

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