令和の “突っ込まざるを得ない” コラム

今月にはいって、ブログ主は不定期に溜まった史料をチェックしてデジタル保存する作業をしていますが、その際に(毎度おなじみの)じわじわくるコラムを見つけましたので、読者のみなさんに紹介します。

令和7年9月26日付沖縄タイムス16面から演劇に関する記事ですが、コラムから漂う “わかってらっしゃる感” がすさまじかったので試しに全文を書き写しました。ただし一部ブログ主で修正しましたのでご了承ください。特に題字のセンスが秀逸です、ぜひご参照ください。

舞台の声を受け止めて〈3〉 ヤマトンチュの視点から 日比野啓

宮本亞門と沖縄の親和性 / 共振する身体同士 交感

音を耳にしたとき、人の感情に接したとき、赤ん坊の身体は敏感に反応して「うねる」、つまり共振する。だが、ある人が大人になっても共振する身体を持ち続けられるかどうかは、生育環境やその人の性格が大きく影響する。

歴史的・社会的経緯のゆえに沖縄には共振する身体の持ち主が多い。ゲイノウ王国と言われるのは、ゲイノウが共振する身体を必要とするからだ。演出家・宮本亞門が沖縄に惹かれ、この地で作品を作り続けるのも、

そのせいだろう。

演出はさまざまな能力を必要とする。作品のヴィジョンを描く構想力。そのヴィジョンを具現化するための資金や人材を集める実行力。稽古場でのエゴのぶつかり合いをうまく調整することも必要になる。

けれどいちばん大切なのは、周囲の人を「巻き込む」力だ。とくに演劇の現場では演出家は自分が心動かされたことを自分の身体で示さないと、スタッフも俳優もついてこない。

演出家としての宮本亞門の強みは、

本人が共振する身体を持っているところにある。

記者会見や稽古風景の動画などで垣間見られる宮本亞門のふるまいに私たちはつい目がいく。それは彼が周囲の人々と全身で交感していることが分かるからだ。

宮本亞門はその共振する身体で人々を巻き込む。ただ、宮本亞門が主に仕事をしてきた大都市の商業演劇には、共振する身体を持たなくとも、鋭い観察力で人物を造形し、きめ細やかに感情を表現する俳優もいる。こうした俳優には、宮本亞門のような「現場を盛り上げます」型の演出は不要だ。

沖縄は違う。ここでは、歌手やダンサーも、子どもや一般の人たちも、身体が共振する。自分が送り出した波動が何倍にもなって出演者たちから返ってくる。宮本亞門のような演出家にとって、

それは夢のような環境だ。

そして沖縄の演劇人も、共感する身体同士の交感する舞台を見て、沖縄のゲイノウをベースに持つ舞台ゲイ術の可能性をあらためて確認できるのではないか。先日の『生きているから』を見て私はそう思った。

古来よりゲイノウは周縁よりやってくる「よそ者」によってもたらされ、共同体を活性化してきた。「中央」からやってきた「よそ者」である宮本亞門は、沖縄の地でそういう役目を引き受けることをどこか照れているようにも見える。

たしかに、ヤマトンチュが沖縄に関わるのは難しい。沖縄のゲイノウをリスペクトしているつもりで、ただおいしいところをつまみ食いしているだけではないか、と私もよく自分を疑う。だが同時に、礼儀正しくあろうとして「一線を引く」と、かえって相手には倨傲尊大に映ることもよく分かっている。

大切なのは、自分たちの美意識や価値観を向こうに「押し付ける」ことを恐れないことだ。押し付けられたら向こうはそのまま受け入れてしまうのではないかと気をもむ必要はない。当然のことながら、相手は押し付けられたものを自分の都合に合わせて取捨選択する‐つまみ食いする。押し付け合い、つまみ食いしあうからこそ文化はチャンプルーになっていく。

宮本亞門なら、その共振する身体で、沖縄演劇をカチャーシーして、もっとチャンプルーにすることができる。もっと活性化することができる。『マイ・フェア・レディ』のイライザなら「証拠を見せて」と歌うところだ。

一歩引いて見守るだけが愛ではない。押し付けることではじめて示せる愛もある。

(成蹊大学文学部教授、演劇史・演劇理論)