台湾事件関連の史料

明治7年(1874)の台湾事件関連の史料まとめです。史料は随時追加します。


大日本大清国修好条規(日清修好条規)

全文

明治四年七月二十九日天津に於て調印

明治六年三月九日批准

大日本と大清国は古来友誼敦厚あるを以て今般一同舊好を修め益邦交を固くせんと欲し

大日本国 欽差全権大臣従二位 大蔵卿 伊達

大清国 欽差全権大臣 辯理通商事務 太子太保協辯大学兵部尚書直隷總督愚部堂一等肅毅伯 李

各奉したる

上諭の旨に遵い公同会議して修好条規を定め以て雙方信守し久遠替らざる事を期す其議定せし各条左の如し

 

第一条、此後大日本と大清国は彌(いよいよ)和誼を敦くし天地と共に極まり無るべし、又両国に属したる邦土も各礼を以て相待ち聊浸越する事なく永久安全を得せしむべし。

第二条、両国好を通せし上は必ず相関切す、若し他国より不公及び輕藐する事有る時其知らせを為さば何れも互いに相助け或いは中に入り程克く取扱い友誼を敦くすべし。

第三条、両国の政事禁令各異なれば其政事は己国自主の権に任すべし、彼此に於て何れも代謀干預して禁じたる事を取り行わんと請ひ願ふ事を得ず、其禁令は互いに相助け各其商民に諭し土人を誘惑し聊違犯有るを許さず。

第四条、両国秉權大臣を差出し其眷属随員を召具して京師に在留し、或は長く駐留し或は往来し内地各処を通行する事を得べし、其入費は何れも自分より払うべし、其地面家宅を賃借して大臣等の公館と為し、並びに行李の往来及び飛脚を仕立書状を送る等の事は何れも不都合なき様世話いたすべし。

第五条、両国の官位何れも定品有りと雖も職を授る事各同からず、因て彼此の職掌相当する者は応接および文通とも均く対待の礼を用ふ、職卑しき者と上官と相見るには客礼を行い公務を辯するに付ては職掌相当之官へ照会して其上官へ伝申し直達する事を得ず、又雙方礼法の出会には各官位の名帖を用ふ、凡両国より差出したる官員初て任所に到着せは印證ある書付を出し見せ假冐なき様の防きをなすべし。

第六条、此後両国往復する公文大淸は漢文を用ひ大日本は日本文を用ひ漢譚文を副ふべし、或は只漢文のみを用ひ其便に従ふ。

第七条、両国好みを通せし上は海岸の各港に於て彼此共に場所を指定め商民の往来貿易を許すべし、猶別に通商章程を立て両国の商民に永遠遵守せしむべし。

第八条、両国の開港場には彼此何れも理事官を差置き自国商民の取締をなすべし、凡家財産業公事訴訟に干せし事件は都て其裁判に帰し何れも自国の律例を按して糺辯すべし、両国商民相互の訴訟には何れも願書體を用ふ、理事官は先ず理解を加え成丈訴訟に及ばざる様にすべし、其儀能わざる時は地方官に掛合い双方出会し公平に裁断すべし、尤盗賊欠落等の事件は両国の地方官により召捕吟味取上げ致す而已にして官より償ふ事はなさざるべし。

第九条、両国の開港場に若し未だ理事官を置ざる時は其人民貿易何れも地方官より取締り世話すべし、若し罪科を犯さば本人を捕て吟味を遂げ其事情を最寄開港場の理事官へ掛合い律を照らして裁断すべし。

第十条 両国の官吏商人は諸開港場に於て何れも其地の民人を雇い雑役手代等に用ふる事勝手に為すべし、尤も其雇主より時々取締を為し事に寄せ人を欺く事なからしめ別して其私言を偏聴して事を生せしむべからず、若犯罪の者有らは其地方官より召捕り糺辨するに任せ雇主より庇う事を得ず。

第十一条 両国の商民諸開港場にて彼此往来するに付ては互に友愛すべし、刀剣類を携帯する事を得ず、違ふ者は罰を行ひ刀剣は官に取上ぐべし、又何れも基本分を守り永住暫居の差別無く必ず自国理事官の支配に従うべし、衣冠を替え改め其地に人別に入り官途に就き紛はしき儀有る事を許さず。

第十二条 此国の人民此国の法度を犯せし事有て彼国の役所商船会社等の内に隠れ忍び或は彼国各処に遁け潜み居る者を此国の官より査明して掛合越さは彼国の官にて早速召捕へ見遁す事を得ず、囚人を引送る時は途中衣食を興へ凌辱すべからず。

第十三条 両国の人民若し開港場に於て兇徒を語合盗賊悪事を為し或は内地に潜み入り火を付け人を殺し劫奪 を為す者有らば各港にては地方官より厳く捕へ直に其次第を理事官に知らすべし、若し兇器を用て手向ひせば何れに於ても挌殺して論無かるべし、併し之を殺せし事情は理事官と出会して一同に査験すべし、若し其事内地に發りて理事官自ら赴き査験する事届きかねる時は其地方官より実在の情由を理事官に照会して査照せしむべし、尤縛して取りたる罪人は各港にては地方官と理事官と会合して吟味し内地にては地方官一手にて吟味し其事情を理事官に照会して査照せしむべし、若し此国の人民彼国に在て一揆徒党を企て十人以上の数に及び並に彼国人民を誘結通謀し害を地方に作すの事有らば彼国の官より早速査拏 し各港にては理事官に掛合ひ会審し内地にては地方官より理事官に照会して査照せしめ何れも事を犯せし地方に於て法を正すべし。

第十四条 両国の兵船開港場に往来する事は自国の商民を保護する爲めなれば、都て未開港場及び内地の河湖支港へ乗入る事を許さず、違ふ者は引留て罰を行ふべし、尤も風に遭ひ難を避るために乗入れたる者は此例に在らず。

第十五条 此後両国若し別国と兵を用ゆる事有るに付、防禦致すべき各港に於て、布告をなさば暫く貿易並びに船隻の出入を差止め誤て損傷を受けさらしむべし、又平時に於て大日本人は大清の開港場及び最寄の海上大清人は大日本の開港場及び最寄の海上にて何れも不和の国と互いに争闘搶劫 する事を許さず。

第十六条 両国の理事官は何れも貿易を為す事を得ず、亦條約無き国の理事官を兼勤する事を許さず、若し事務の計ひ方衆人の心に協(かな)はざる実據(じつきょ)有らば彼此何れも書面を以て秉權大臣に掛合ひ査明して引取らしむべし、一人事を破るに因て両国の友誼を損傷するに至らしめず。

第十七条 両国の船印は各定式あり、万一彼国の船此国の船印を假冐して私に不法の事を為さば、其船並に荷物とも取上くべし、若し其船印官員より渡したる者ならば基筋に申立官を罷めしむべし、又両国の書籍は彼此誦習はんと願わば互に売買する事を許すべし。

第十八条 両国議定せし條規は何れも預(あらかじ)め防範を為し嫌隙を生ずるを免れしめ以て講言修好の道を盡す所なり、是に因て両国欽差全権大臣證據(しょうこ)の爲め先ず花王調印をなし置き両国御筆の批准相済み互に取替はせし後に即ち版刻して各処に通行し彼此の官民に普く遵守せしめ永く以て好みを為すべし。

明治四年辛未(かのとひつじ)七月廿九日

同治十年辛未七月廿九日


琉球処分の全貌―公文書通読のガイド 仲里譲 著より抜粋

〈ローヴァー号事件〉

米人李仙得(リセンドル)者、前年清国廈門に総領事為りし時、米国商船生蕃之地に漂到して掠奪せらるるを以て、米国政府軍艦を発して罪を問ひしに、生蕃牢くして破る可らず、兵を収て回る、後に李仙得命を奉じ、自ら生蕃の牡丹社に入て、酋長篤其卓(トキタ)を説諭し、約を結び、以後米国の船漂泊せは當さに紅旗を挿すべし、汝等之望まば、決して害を加ふる勿れと責む、酋長遵服し箪食壷漿(たんしょくこしよう)以て送る、李此功を奏して南米の公使に叙せらる。


・近世東洋外交史序説 斉藤良衛 著 昭和2年刊行より抜粋

〈台湾事件の原因〉

台湾事件は、明治4年に台湾牡丹社の蕃人が琉球人を殺害したことから起こって居る。即ち、同年11月琉球島民が那覇へ行っての帰路、台風に遇って台湾の南方海邊に漂到し、本船は難破したので、難民が小舟に乗って漸く陸地に達した。総員66名であったが、蕃人が之を襲って、掠奪したうえ、54名を虐殺し、残りの12人は辛うじて支那人部落に逃れ、漸く命丈けは助かり、台湾府の地方官の保護を受けて対岸の福州に送られた。当時北京に居つた柳原代理公使は、北京政府からの通告を受けて、早速副島外務卿へ其旨を上申した。超えて翌5年6月琉球王からも鹿児島県参事大山綱良(おおやまつなよし)に遭難を報じて来たので、大山は自ら軍艦を率いて、台湾土蕃の膺懲に当たろうと申し出た。然るに、其翌年になって、復又備中小田県人4名も、生蕃の掠奪に遭った。台湾生蕃の日本人に対する暴行は、単に此の両回に止まらず、其の約50年前の道光2年と約30年前の道光37年とに、琉球人は2度も同様の害を受けて居る。然るに、支那政府は素より此事実を知って居たにも拘らず、未だに曾て暴民の処罰もしなければ、将来の害を除くべき施設もしなかったから、支那政府に対する不満の声は、久しい以前から相当高かったのであった。然し、当時日本は鎖国の時代であり、事を外国に構える時機に達して居なかったのであるが、明治の維新と云うものが、日本を対外的に目醒めさした際に、前記明治4年と6年の2度の事件が起り、支那政府が依然として無責任な態度を執ったから堪らない。民論の沸騰其の極に達し、政府は素より之を重大事件とし、直ちに起こって支那の責任を問うに至ったのである。

〈ローヴァー號事件の先例〉

是れより先き、米清両国間に、ローヴァー號事件と云うものが有った。1867年5月、米国船ローヴァー號が汕頭から牛荘への航海の途中、矢張り台風に遇って台湾南部で難破し、船員は命辛々同島東南部の一地点に上陸したところ、是又獰猛極まりなき蕃人に攻撃されて、支那人水夫一名を除く全員が虐殺されて了つた。此報道を得ると、在支米国公使は早速支那政府に厳談したが、例に依って責任を回避して、更に要領を得ず、他方、当時台湾府に駐在して居た英国武官は、事件の報道を得ると早速自国軍艦で現場に向かって、生残者の救助捜索の任に当たったところ、是又土人に襲撃されて目的を達せず、已むを得ず打狗から厦門に引揚げた。当時厦門には米国の将軍で総領事であったル・サンドルが在勤したが、ルは大いに怒り、屡々在同地支那官憲に対して、厳重な談判を持かけたが、是又北京に於ける交渉と同様、更に要領を得なかった。ルはもどがしがって自ら台湾府に行って支那官憲に掛合った。然るに同時支那官憲は事件の起こった台湾東部に対しては何等の権能を持たぬと云って、ルの交渉を刎ね付けた。米国政府は支那の態度を遺憾とし1867年6月米国のベル提督は、本国政府からの訓令に基き、軍艦二艘を率いて、自ら土蕃膺懲を企て却って蕃人に破れて引揚げねばならなくなった。事態は甚だ重大となったが、支那政府は事が大きくなればなる程、蕃地は化外の地であるから、手が下せないとりで、飽く迄責任を回避した。尤も支那政府は米国公使の要求に依って、渋々ながら台湾南部に外人遭難防止の為め灯台を建てることを約束はしたが、実行に取りかかる気色は更に無かったのであった。そこでル・サンドル将軍は支那政府対手の交渉を無益なりとし、土蕃と直談判を決心し、同年9月地方官から借りた支那兵を引具して、自ら蕃地に赴いた。支那兵を連れて行ったら流石の蕃人も威どし得るであろうと考えたからであったが事実は之に相違い、蕃人は支那人を不倶戴天の敵だと云って支那の兵隊の前での交渉を強硬に拒絶したので、ルは大胆にも、通訳と護衛合計6名を連れて深く蕃地に乗込み、酋長トキトクと談判し、ローヴァー號乗組員に対する暴行を謝罪させ、且つ将来欧米人に危害を加えぬことの約束を取付けた。此の約束が出来ると、支那兵隊長亦蕃人と和を結ぼうと試みたが、トキトクは支那人は我が惡む敵人なりと云って、講和を斥けて了った。


・台湾遭難事件(沖縄の歴史 比嘉朝潮 著 1959年刊行より抜粋)

この年六月七日帰着の接貢船で台湾に遭難した仲本加那以下十二人が帰ってきた。仲本らの話のよると、前年の十月十八日宮古行の二隻、八重山行の二隻、都合四隻の山原船が那覇を出航した。仲本らの乗った船は与那原の謝敷筑登之親雲上の持船で、船頭は与那原村の謝敷某、春に宮古から上納物を積み上り今度また宮古に帰るもので、頭職の仲宗根玄安をはじめ宮古の与人、目差、筆者に、その従者たち合わせて四十八人、それに便乗の客や船員で総員六十九人であった。那覇を出帆した四隻は、一応慶良間に寄航、二十九日いよいよ出帆し、十一月一日正午頃遥かに宮古島を見たが、北の強風のために港に入ることができず、それから風に従って漂流、仲本らの乗った謝敷船は五日に至り台湾の山を見、翌六日陸地に近づいて座礁してしまった。端舟を降ろして、総員二度に分けて上陸したが、波は荒く舟は小さく、うち三人は波にさらわれて溺れ死に、しかも本船は間もなく破壊して波に沈んだ(註・謝敷船の漂着座礁したところは、台湾南部東海岸の八瑶湾という蕃地であった。)

六十六人のものは陸に上がり、人里を求めてあちこちとさまよっているうち、二人の中国人に逢って尋ねると、西方に行くと大耳の生蕃がいて首を斬られるから、南に行けと手まねで教えてくれた。が二人の中国人は六十六人の持っている衣類を持てるだけ奪い取り、残りは山中に投げ込んで標木を立てた。

皆が或は同類がたくさんいるかもしれないと疑いを起こしていると、すでに日暮れになっていて、二人の中国人は路傍の岩穴を指して、人家は遠いから今晩はこの穴に一宿せよという。とても皆がはいれるほどの穴ではないというと、言うことを聞かないなら勝手にせよ、構わないと怒った。それで皆は、この両人は泥棒にちがいない。南の方へ行けというのも計略かもしれないと、それから二人に別れて方向を転じて西にいった。夜もだんだん更けたので一同は道端に寝た。この日は朝船中で一食しただけで何も食べなかった。

翌七日南方に人家が見えた。行って見ると十四、五軒の家があり、その中の一軒に寄って助けを乞うと、一行六十六人に飯をくれた。夜の八時頃また唐芋に米を雑ぜ二三升炊きくらいの鍋に炊いて二鍋くれた。その夜はこの家に泊まっていたところ、夜半に一人の男が左手に松明を持ち右手に片刃の刀を持って襲いかかり、二人の肌着を剥いで行ってしまった。そして残りの人々も、この家の者に先に中国人に奪われた残りの物をすっかり取られてしまった。

八日の朝、猟銃を持った五六人の男が来て、自分らはこれから猟に行くから帰るまでこの家に居れといった。一行がこれから他に行きたいというと彼らは強いてとどめるので、一行はますます疑いを起こし、三々五々逃げ出して一里ばかり行ったら小さい川があった。ここで皆が一しょになったのでしばらく休んでいると、男女七八人が追っかけて来た。皆びっくりして浅い川を渡渉して逃げた。(上陸して最初に到着したのは高士仏社という生蕃人部落であった。同地の蕃人は仲本らを見て難破船があったことを知り、その夜は彼らを蕃社に泊め、翌早朝漂着物略奪の目的で八瑶湾に向かったのであったが、その留守中に琉球人は山を下って逃げたのであった)。

すこし行くと道端に五六軒の家があって、一軒の内を窺うと一人の老翁が出迎えて、君たちは琉球の人だろう、首里か那覇かと尋ねた。一同が助かった思いでいると、翁の息子が姓名を書いたら台湾府城に護送して上げようという。

ここは双渓口の鄭天保(てんてんほ)の宅であった。天保は漂流者であることを知って、食事を与えようと準備中、牡丹社の蕃人が来てたくさんの獲物と喜んで、翁に向かい漂流者の引き渡しを強要した。この時高士仏蕃人は漂流者達の遁走を知って、ちょうど牡丹社蕃人の要求を聞いて大いに怒り、漂流者は自分ら蕃社の獲物であると主張して双方の喧嘩となり、それから互いに衣類等の掠奪をはじめ、とうとう首切りがはじまった。生蕃には首を多く取ったものが勝ちという習俗があり漂流者たちは首切り勝負の種にされたわけであった。

当時西海岸の瑯嶠湾に近い保力圧に楊友旺という中国人がいて、いつも四重渓という川に沿った中部の双渓口に行って鄭天保と水牛その他の物品の取引をしていた。この日楊友旺はその子の阿才を連れて、いつものように早朝保力圧を立って双渓口に向かったが、途中の石門という所を通る頃から幽かに異様な声を耳にし、進むに従って叫喚悲鳴がはげしく聞こえた。親子が駆けつけてみると、蕃人数十人がまさに漂流者を惨殺しているところであった。かねてから蕃人たちをよく知っていた楊は、彼らを押しとどめ、生存者九人をまず屋内に入れ、蕃人を説いて布や金を与えて九人の命を購い、自宅へ連れ帰った。

楊親子は翌日遺体収拾のため再び同地へ行って調べたら、五十四体しかなかったので、外になお三人の生存者があることがわかり、諸所を捜査の結果、附近の山中から二人は出て来たが、一人はゆくえがわからない。そこで彼は賞を懸けて各蕃社に捜索せしめたら、二十日ほどを経て竹社の蕃人が見付けたと知らせて来たので、行って救い出した。

十二人のものはこの家に滞在すること四十余日、この村は戸数約三十あって、人々は漢字が読めた、滞在中は日々三食を給され、また近隣から招かれて馳走になったことも度々あった。

西部海岸の茄苳脚庄に粛佐生という楊の商売取引者がいたが、ある日楊の宅に来てこの事件を聞き、帰って鳳山県に訴えた。知県の孫幾祖は楊に生存者の連行を命じた。

十二月二十日、楊の二子阿才と阿和が同道して出発、三里ばかり歩いて小舟に乗り、五六里行き、また陸行して夜中ごろ楊の知人の家に着き、二日滞留、二十五日この家の主人もともに案内して夕方鳳山県というところに着いた。

知県は楊の善行を賞して二百金を与えた。ところが帰途榜寮分県というところで、暴徒につかまって金を奪われた上拘留され五日の後やっと放たれて家に帰った。

あくる日県の役人が来て木綿の綿入を一枚ずつ呉れた。滞在二日、二十八日陸路護送されて行くこと六里。やや大きな町に泊り、二十九日八里ばかり陸行して台湾府城に到着した。1872(明治5)年正月十八日、蒸気船で福州河口に到着、二日停泊。後琉球館に入り、六月二日帰唐船に乗って福州出帆、同月七日那覇に着いた。

以上が仲本の話、楊友旺の孫楊庚生の話をまとめた事実の概略である。(これは後の話であるが仲本らは帰着後謝恩のため楊友旺に二百金を送り、鳳山県は受取り方を彼に通告したが、先の榜寮分県の掠奪に懲りて貰いに行かなかったとのことである)


・12月27日追加分 外交家としての大久保利通 清沢洌 著 1942年刊行より抜粋(旧漢字はブログ主にて改変)

事実は少し前にかへるが、明治四年十月十八日に那覇を発した琉球の属島宮古島の貢船が、風浪のため台湾の南端(八瑶(はちよう)湾)に漂着し、乗組員六十六名の内、五十四名が牡丹社の蕃人に殺戮され、十二名が難を免れて、清国官吏の保護により(明治)五年六月に漸く帰島し得た事件がある。これが報告を得た鹿児島県参事大山綱良は上書して、自ら問罪の師を興して蕃地を征し、皇威を海外に宣揚(せんよう)すべき事を主張した、西郷隆盛以下薩派の武人が、これに熱心に賛意を表したので、征台論は朝野の間に極めて熾んになった。明治六年三月に外務卿副島種臣が清国に赴いたのは、表面の理由は同治帝の親政祝賀と修好条約の交換であったが、事実は朝鮮と台湾に対する清国の意向を知らんとするにあった。副島が渡清の途、態々(わざわざ)鹿児島に立寄って、帰省中の西郷と会見したのは、薩派との諒解を完全にせんがためである。

だが、台湾問題で支那に打ち当るためには、琉球人が台湾で惨殺されたというだけでは不十分だ、琉球は以前から支那と日本(薩摩の島津氏)とに両属して居つたから、日本だけでその保護の責任に座する理由はない。そこでこの問題に乗出すためにも、琉球に対する日本の位置を明らかにして置かなくてはならぬ。尤も日本の膨張力は、そうした問題がなくても、その勢力を南方に伸したであろうことは明かで、現に明治五年には鹿児島県官(奈良原幸五郎、伊地知貞馨)は琉球に赴いて日本本土の変革と告げて島治の改革を促している。しかし南方問題の出現は急速にこの足固めをなす必要があり、明治五年九月には正史伊江王子(尚健)以下を上京せしめ、琉球王尚泰を琉球藩王に封じ、華族に列し、東京飯田町に邸宅を賜った。かくて日本との関係は明かになったが、ただ琉球と支那との紐帯(ちゅうたい)は切れて居らぬ。この点は日本側でも認めざるを得ざるところで、五年正月、鹿児島県官奈良原幸五郎が持参した『口上手控書』にも『全体琉球国之儀、表向きは支那の附属に候へ共、現実本朝附庸之国に相違無之』と書いて居る。この支那との紐帯の問題が台湾事件につながっている。

征韓論の紛議が終わった後、残る対外問題は北方の樺太問題と、この琉球の帰属を根幹とする台湾問題だ。明治七年正月に、内務卿大久後と、大蔵卿大隈重信とが台湾蕃地処分問題の調査を命ぜられた。大久保としては征韓の意味する政策、即ち日本の胴体を以て、大陸へ打ちつける永久的な政策をやるのには、日本の実力は尚早であると考えた。この大久保の意見は、朝鮮問題が日清戦争で片付かず、それを解決したのは日露戦争後であった事実から観て正しいことといはねばならぬ。大久保が樺太や、琉球の問題ならば現在の潮時こそ最好の時期だと考へたことは、その何れに対しても自ら重責を当らんとしたことを以ても知れる。

大久保、大隈の署名になる『台湾蕃地処分要略』は、その南方政策の具体案を示し、かつ当日(明治七年二月六日)の閣議で、討蕃撫民の軍を発するに決した根拠をなすものであるが、左に重要な項を掲げよう。(第五条、六条、七条は省略)

第一条 台湾土蕃の部落は、清国政府権逮(およ)ばざるの地にして、其証は従来清国刊行の書籍にも著しく、殊に昨年(明治六)全参議副島種臣使清の節、彼の朝官吏の答にも判然たれば、無主の地と見做すべきの道理備れり。就ては、我藩属たる琉球人民の殺害せられしを報復すべきは、日本帝国政府の義務にして、討蕃の公理も茲に大基を得べし。然して処分に至ては、著実に討蕃撫民の役を遂ぐるを主とし、其件に付て清国より一二の議論生じ来るを客としべし。

第二条 北京に公使を派し公使館を備え、交際を辯知せしむべし。清官若し琉球の属否を問はば、即ち昨年出使の口磧に照準し、琉球は古来我帝国の所属たるを言い竝へ、現今彌々(ますます)恩波に浴せしむるの実を明にすべし。

第三条 清官若し琉球の自国に遣使献貢するの故を以て、両属の説を発せば、更に顧て関係せず。其議に応ぜざるを佳とす。如何となれば、琉球を控御するの実権皆我が帝国に在りて、且遣使献貢の非礼を止めしむるは、追て台湾処分の後に目的あれば、空く清政府と辯論するは不可とす。

第四条 清政府より台湾処分に付論説を来さば、昨年の議を確守し、判然蕃地に政権不逮の証磧を集て動かざるべし。若し土地連境の故に付論すべき者生ぜば、和好を以て辯すべし。其事件至難に渉らば、是を本邦政府に質して可ならん。惟推託して時日遷延の間に即事を成し、和を失わざるの機謀交際の一術なり。

第八条 副島九成、成富清風、吉田清貫、児玉利国、田中綱常、池田道輝右六名を先に台湾へ派遣し、熟蕃の地へ立入り、土地形勢を探偵し、且土人を懐柔按撫せしめ、他日生蕃を処分する時の諸時に便ならしむべし。

第九条 探偵の心得は、熟蕃の地琅橋社寮の港より兵を上陸せしむる積に付、兼て此辺の地勢其他碇泊上陸等の便利なる事に注意すべし。

右大久保、大隈の意見は要するに(一)台湾土蕃の部落は無主の地である。(二)清国政府がこれに反対すれば、議論を以て遷延し、既成事実を作りあげてこれに対すべし、(三)領事(外交官)は軍事に関せず、征撫に任ずる者(軍人)は応接(外交)に関せず、その分界を明にし、重大事件は北京在勤公使に傳致すべきだといふにあった。即ち大久保の意志は和平を第一として、機謀交際の間に実益を得んとするにある。


・12月27日 沖縄県庶民史 川平朝申 著 1974年(昭和49)より抜粋

〈薩摩閥が乗気〉 (中略)明治七(1874)年正月には内務卿大久保利通と、大蔵卿大隈重信の二人が台湾蕃地処分問題の調査を命ぜられました。大久保と大隈は早速台湾問題について調査研究の結果、南方政策の具体案「台湾蕃地処分要略」明治七年(1874)二月六日の閣議に提出しました。その結果、台湾征伐、撫民の軍を出征させることに決まりました。(中略)この「台湾蕃地処分要略」によって、台湾蕃地事務局長官を兼務する大隈重信は、閣議で台湾討伐準備金五十万以内とし、総司令官に西郷隆盛の弟、陸軍中将西郷従道を任命しました。

ところが、閣議で大久保と大隈が掲議した台湾討伐案に、木戸孝允が猛烈に反対しました。木戸の反対意見と云うのは「現在日本の形勢は人臣がまだ貧しい暮らしをしており、内政に専念し人民の暮らしを高めた後にしてもよいではないか。大久保は西郷の主張した征韓論に反対した理由も、内政第一主義を唱えていたのに、何故に急を要しない台湾征伐をする必要があるのだ。問題は明治四年のでき事であり時間も過ぎており、琉球側からもあまり事を大きくして貰いたくない請願が出ている位である」というのが木戸孝允の主張でありました。木戸の主張は理論的に筋が通っていますが、大久保としては、日本の内政を軌道に乗せるためには、この台湾出兵は、チャンスであると考えたのです。それというのは、当時、各地に不平士族達の暴動が起こっており、この不満のはけ口を他に転ずるためにも好機だと考えたし台湾問題の顧問として協力を求めた米人ル・ジャンドルからも、台湾討伐は必ず成功するといわれ、確信がありましたのでこれを押し切り、西郷従道を台湾蕃地事務都督に任じ、大隈は長崎に台湾事務支局を開設し、そこで台湾問題の事務をとることになりました。

〈旧薩摩藩士も大挙参加〉 同年(明治七)四月九日、西郷従道は日進、孟春の二艦を率い品川港を出航しました。西郷の艦隊は途中長崎に立ち寄り、四月十五日大久保と会見しましたが、たまたま政府から台湾遠征をしばらく待つよう指令がきました。

ところが西郷都督はこの命令を無視、長崎で壮兵を募集しました。これには従道の兄隆盛が、喜んで協力をし、三百名を募集することができました。また陸軍少将谷干城、海軍少将赤松則良らも参軍し、兵隊三千六百人を集めました。この外に米国船ニューヨーク号、英国船ロークシャー号を雇い入れ、兵隊の輸送船にし、米国人顧問官ル・ジャンドルほか海軍少佐カッセル、海軍大尉ワッション等と高給で雇い入れ、台湾に出発しました。

明治七年五月七日の朝、征台日本軍は、台湾南部(台東)瑯嶠湾に着きましたので、都督の顧問として従軍した米国人カッセル海軍少佐は、清国人で米国に帰化した通訳官ジョンソンを最初に上陸させ、社寮の頭人阿綿と会見させ、日本軍の遠征して来た理由を地方人に伝達させました。それから三日後の朝、日進艦が到着し谷干城少将、赤松則良少将両参軍が上陸して直ちに陣容を構築し駐屯準備にかかりました。(五月)十六日には赤松少将がカッセル米軍少佐を伴って綱砂(こうさ)という熟蕃(首狩りの風習を廃した平和的な蕃社)の村にいって、サバアリ社の頭目イサと会見したところ、琉球藩民五十四名を殺害した蕃人がサバアリ社の者ではないことが判明しましたので、日本軍は頭目イサを信用することにし、琉球藩民を殺害した牡丹社を日本軍の敵とすると宣言、頭目イサは喜んで帰っていきました。

日本軍はふなれの台湾蕃地での戦闘でありますので、たえず斥候を出して敵地の偵察をさせていましたが、牡丹社の蕃人達は時々射撃をして来ました。陣営がほぼ完成した頃、豪雨に見舞われ、弾薬や食糧まで水びたしにされ、幕舎が水中に没するという不利な状況になりましたので、谷少将は全軍を二キロばかり南方の亀山の麓に移動させました。その後毎日こぜり合いがあり、双方に死傷者数人を出しています。

五月二十二日高砂丸が瑯嶠(ろうきょう)湾に着いて、日本軍は、勢揃いしました。ところが清国政府の海防兼理蕃同知(海防と理蕃係の役人)袁聞折が中国から到着して西郷都督と会見、日本軍に対し「日本軍の陣営を速やかに撤回するように」と要求しました。これに対し西郷都督は、言下に、牡丹社の降服のない限り撤退しないと告げました。袁聞折は反ばくする言葉もなく立ち去りました。

〈牡丹社の降服〉 それから三日たった、五月二十五日、瑯嶠十八社中の大頭目テラソフ社のトキトク、その弟ツールイ、サヴアリ社の頭目イサ、マンスー社の頭目カルリン、同副頭目アイー、シュリンバン社の頭目ピンナライ、カチライ社の頭目ツイルイの六人が社寮頭目ミヤと介して、牛や鶏を都督に献して、帰順の意を示して来ました。そこで谷、赤松の両将軍は佐久間参謀長(この人は後になって台湾総督になりました)と共に、社寮に行き、これら六人の頭目と会見をしました。

ジョンソン通訳官を通じて、これら多くの蕃社の住民達に、日本軍は敵意をもたず、むしろ親善を旨とするが、いまだ帰順しない牡丹社と高士仏(クスクス)社の蕃人達に近く掃討戦を開始する。その外の蕃社の者で逃げかくれて、日本軍に不利益をこうむらす者がいる場合には、イサ及び諸頭目も捕らえて、日本軍の陣営に送る、と警告しました。

イサや他の頭目達はこれを諒解、各蕃社に帰って行きましたが、その際に、日本軍は準備しておいた「帰順の章」として、各蕃社に日の丸の国旗十六旒をイサを代表にして渡しました。

五月三十日、亀山の本営で作戦会議を行った結果、いよいよ六月二日を以て牡丹社の総攻撃を決定しました。谷少将の軍は北路をとって楓港より進撃、佐久間参謀は中軍を指揮して石門から攻撃、赤松少将の指揮する軍は南路をとって前社より進撃することになりました。作戦計画は周到に、しかも緻密に行われ予定通りの進撃が開始されました。三軍とも敵の伏兵に狙撃され数名の死傷者が出ましたが、これに屈せず進撃をつづけ、南路を進撃していた赤松軍が、高士仏社に侵入し蕃社を焼き払いました。

六月三日には三軍とも同時に牡丹社に総攻撃を敢行し、ここも焼きはらってしまいました。日本軍は牡丹社と隻渓口にそれぞれ一個小隊を駐屯させて、全軍本営の亀山に凱旋しました。その後重要な蕃地には小隊を派遣しまたは本営を設置して守らしめました。亀山には本営を建設しました。牡丹社や高士仏社の蕃人達は、一時日本軍に追われて山林に逃げかくれていましたが、家屋や衣服什器が焼きはらわれて生活に困りはて、ついに謝罪、帰順を決してその取り次ぎを統捕の頭人林阿九に依頼して来ました。

七月一日、猪膀来(ぬぼうこう)社の大頭目ヴンキエは、牡丹社の新頭目クーリウ、女仍(じょじょう)社の頭目クールイ、高士仏社の頭目ブラリヤン、蚊蟀(ぶんしつ)社の頭目カリタイ、クアルツ社の頭目テウマリー、サヴアリ社の副頭目テンライ及び壮丁七十人余を引き連れて、保力社の楊天保の家まで出て来ました。

〈マラリアでの死亡〉 佐久間参謀は、西郷都督の命を受けて、楊の家に行き、まず牡丹社の頭目を呼び出し、降服の真意を確かめ戦闘の状況や琉球藩民の殺害当時の状況を取り調べ、殺害された琉球藩民の首級を差し出すよう諭し、それを約束した後、次に高士仏社の頭目及び女仍社の頭目に同じような訊問を行い、特に佐久間参謀は琉球藩民を殺した者の名前、琉球藩民の遺骨を埋葬してある地点等を調べました。こうして牡丹社の討伐戦は先鋒隊が瑯嶠湾に着いた日から、凱旋の途につくまで七ヶ月を経過しましたが、日本軍の全兵力は将兵、軍属、従者を合計して三千六百五十人でした。そのうち戦死が十二人負傷が十七人にとどまりましたが、マラリアで死亡した者がなんと六十一人の多きにのぼりました。西郷都督は殺害された五十四人の琉球藩民の遺骸を集め、楊友旺等の協力を得て、現地に墓を造り、これをねんごろに葬りその霊を弔いました。遺族のためには分骨をし、凱旋の際持ち帰り、長崎経由沖縄に送り返し、那覇市護国寺の境内に葬りました。これで大久保利通の主張した、台湾生蕃討伐は大成功のうちに幕を閉じました。

 

 

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