史料 昭和22年の瀬長亀次郎さんの消息

昭和22(1947)年の瀬長亀次郎さんの活動に関しての(現時点で蒐集した)史料をアップします。今回は分量が多いので解説は後日改めて掲載します。『琉球新報80年史』からの抜粋に関しては、当時のうるま新報の様子を知る上で重要なので、読者の皆さん是非ご参照ください。

 ・社長、島から瀬長へ 島清が1946年9月に社長を辞任して東京に行くことになった。それは彼がやがて参議院議員の選挙に乗り出す準備行動であった。島社長の後任に米軍政府新聞将校テイラー中尉は編集長・池宮城秀意(いけみやぎ・しゅうい)を押したが、池宮城は健康状態を理由に辞退した。島と池宮城が話しあって、糸満地区の総務をしていた瀬長亀次郎を推せんすることになった。当時は各地区に軍政の末端機関として「地方総務」というのがおかれていて瀬長もその職にあった。彼は沖縄民政府の又吉総務部長ともそのころ親しくしていたし、島や池宮城とも戦前からの友人であった。瀬長は「うるま新報」の社長に主任後、又吉総務部長の推挙で民生議会(沖縄議会)の欠員補充として議員になった。当時、沖縄民政府には志喜屋、又吉派と松岡派の派閥対立があって、松岡派の論客は仲宗根源和で、彼に対抗するのは瀬長であった。これはずっと尾を引いて久しく沖縄の政界の底流となった。(琉球新報80年史通史編 36㌻より抜粋)

・一九四七年四月、『うるま新報』は、従来の無料配布制を有償購読制に改めることになった。そのきっかけは、米軍政府が予算削減のための人員整理を指示してきたことにあったという。自由企業として独立採算制をとろうというのである。

(中略)人民党には、戦前の社会主義運動の経験者がかなり含まれていた。初代委員長浦崎康華、常任中央委員瀬長亀次郎、兼次佐一などがそうである。そして、ここに名まえを挙げた人たちは、いずれも『うるま新報』の関係者であった。浦崎康華が前原地区支局長、兼次佐一が本部地区支局長、そして瀬長亀次郎は社長であった。治安維持法違反で投獄経験のある池宮城秀意(いけみやぐすく・しゅうい)も、中央委員に名をつらねていた。沖縄人民党という党名の名付け親は池宮城秀意だともいう。いずれにせよ、人民党結成は、『うるま新報』と深くかかわっている(不二出版 – うるま新報 – 米軍占領下の『うるま新報』より)

・(中略)人民党は四七年七月に結成されているが、判事をやめ、糸満で弁護士をしている私の耳には、そういう中央の動きはあまり入ってこなかった。私自身判事をやめたあとだから”中央への無関心”がそうさせたのかもしれない。糸満のころは瀬長亀次郎君も玉城あきら市長の助役として善良にして忠実な公僕であったから、私は彼のジープを利用して、ときどき首里の裁判所参りもしたが、彼からそういう話はでなかった。仲宗根源和君らの民主同盟に対抗する意味で瀬長君は元市会議員の浦崎康華(中央委員長)、兼次佐一君らと人民党を結成、大宜見朝徳君も同年十月軍政府布告二十三号で「社会党」を結成した。(『当間重剛回顧録』98-99㌻からの抜粋)

・三つの条件(①編集上の事前検閲制をやめること、②米軍から報酬みたいに物資の配給を受けていたが今後は受けない、③そのかわり新聞を有料制にする)が承諾され、私は民間企業としての「ウルマ新報」発足のため大宜味、本部、那覇、糸満など支局の強化と新設、人事のことで北から南へ全県とびまわった。こうして1947年4月1日から販売制は実施された。この支局つくりとその後の新聞配達を通じて私は戦前から進歩的な人々や、米軍占領に疑問を抱いている人々との連絡を密にするようになった。(実はこの3つの条件のうち②に関してはうるま新報は米軍より物資の供給を受けていた。理由はそうしないと新聞が発行できないから。)

その結果、浦崎康華(具志川)、神山孝標(糸満)、新垣幸吉(糸満)、屋部憲(石川)、兼次佐一(本部)、東恩納寛敷(那覇)、平文吉(石川)、安座間淳(具志川)、阿波連之智(那覇)、宮城清一(羽地)の諸君らが元気でいることが判明、政党結成のための相談が進み準備会を持つに至ったのである。各氏との連絡は私の役目であった。各氏とも意気盛んであり、大衆的にも正統結成の機運が高まりつつあった。(中略)

1947年7月、屋部憲、浦崎康華、瀬長亀次郎の3人が世話人となり、党結成の第一回準備会が玉城村に移っていた「沖縄民政府」食堂で開かれた。およそ80人ほどの同士たちであった。

集まった同志たちは、そのほとんどが戦前沖縄の社会運動に参加した経験や治安維持法で検挙、投獄されたことのある進歩的な人びとであった。私は、綱領、規約、政策の起草委員会(15人)に浦崎、屋部、兼次、新垣、神山らと一緒に選ばれ、その作業にあたった。

六月の末、深夜までかかって起草を終え、結成大会も7月20日と決定した後、ささやかな酒宴をもうけ、みんなで朝までゴロ寝したことをいまも鮮やかにおぼえている。

1947年7月20日、歴史的な沖縄人民党の創立大会は、石川市大洋初等学校で開催された。会場は二つの教室を抜き通し、スローガンで飾られた。大会は場外にあふれた人たちも含めて約200人が参加して開かれ、綱領、43項目にわたる政策、規約を決定し、役員選出と諸決議が行われた(中略)。

大会は、30人の中央委員を選出し、委員長に浦崎康華、5人の常任中央委員として瀬長亀次郎(組織)、屋部憲(教育)、兼次佐一(政治)、新垣幸吉(財政)、東恩納寛敷(調査)を選任した。(『瀬長亀次郎回想録』63~68㌻)

・沖縄人民党役員名簿 一九四七年十月現在 中央委員 – 瀬長亀次郎(沖縄公文書館 – 琉球政府文書 – 政党に関する書類(1)よりデジタルデータを掲載)

1947年5月9日、米軍政府は沖縄民政府に対し、「市町村選挙法制定の準備をせよ」との指示を与え、東京の連合軍総司令部からキルトン中佐とホーリー弁護士が指導のため来島した。瀬長ウルマ新報社長と前原支局長の浦崎康華がキルトン中佐らに会見を申し込み、選挙に必要な政党と、その下部組織になる労働組合結成の可能性、言論活動などについて質問した。キルトン中佐らは「それに答える権限を与えられていない。帰任してから返事をする」ということで帰京したが、二週間後に次のような返事があった。

「沖縄人が健全な政党や労働組合(ただし軍作業員は除く)を組織することは差支えない。また、米軍の占領政策を批判しない限り言論は自由である。いずれ米軍政府から布告が出るであろう。」(注=政党の結成より遅れて1947年10月15日、特別布告第23号「政党について」が公布された)

キルトン中佐の返事を得て、瀬長と浦崎は協力して新党結成の準備に取りかかり、宣言綱領の起草は浦崎が分担した。浦崎は新党準備委員の瀬長亀次郎、池宮城秀意、東恩納寛敷、屋部憲、宜保為貞ら戦前の社会運動家の意見を聞いて起草したが、浦崎試案の宣言、綱領は次の通りであった(中略)。

以上の浦崎試案はウルマ新報記者糸洲安剛が謄写版刷りにして各方面に配布し、来る(昭和22年)7月20日石川市大洋小学校で開催する新党結成大会で審議決定するので、修正案は予め提出するよう要請した。

結成大会は浦崎が議長となって運営され、党名は沖縄社会党、沖縄社会大衆党も審議されたが、池宮城秀意提案の「沖縄人民党」を満場一致で決定、また、宣言綱領は浦崎試案を無修正で採択、役員は詮衡委員会の予選通り決定し、直ちに民主主義確立のために活動を開始した。(『戦争と平和の谷間から』浦崎康華著 304 – 306 ㌻からの抜粋)。

・瀬長は人民党中央委員になると農村を廻って米軍の占有している土地の状況や農民の困憊状態を調査し、米軍の占有している土地の使用料を請求すべきことを説いた。米軍政府は瀬長の言動を政治活動と見て、米軍政府の情報部長ハウトン大尉は瀬長と池宮城秀意編集長に対し「新聞社長と政治家は両立できるか」と暗に土地問題から手を引くように示唆したところ、瀬長が「できる」とあっさり答えると、ハウトン大尉は口をつぐんで、それ以上何も言わなかった。しかし、池宮城はハウトンの示唆を受けて人民党から手を引き、新聞編集に専念した。(『戦争と平和の谷間から』浦崎康華著 341 ㌻からの抜粋)。

・無償から販売制へ 通貨と賃金制の復活(1946年5月1日)で「うるま新報」の社長以下全員約40名のものが民政府から棒給を支給されることになったので、軍政府は予算削減の必要から人員減を申し入れてきた。週刊で、しかも、タブロイド版2頁の新聞発行に40名近い人数が多すぎることは明白であった。軍政府総務部のフライマス(元陸軍大尉)が名簿その他の提出を求めて減員を要求してきたので、それならば無償で配布している新聞を販売制にして民政府から棒給をもらわないですむようにしようではないか、と提案した。ということは、新聞を本来の企業に帰してくれ、ということであった。米軍政府でもあれこれと討議したのであろう。これまでのように沖縄民政府、それは米軍政府の下部機関としてのプペット(puppet、操り人形)であるが、その従属機関として給与も支給しておけば支配も指示も命令も可能であるが、独立した企業にしたらそれができなくる。そういう理屈になるが、新聞は本来、言論の自由を持たなければならない、というこてゃ軍人てゃ言い条、軍政府の幹部も知っていたはずである。

結局、新聞側の意向を入れて、1947年(昭和22)年4月1日から販売制を認めることになり「うるま新報」は戦後の自由企業第一号として出発することになった。このときは新聞将校はハウトン大尉に交代し、彼はアメリカ本国から赴任してきたものであった。

ここで記しておかねばならないことは、新聞発行について、資材はすべて米軍から無償でもらっていたということである。したがって、米軍が資材を提供しないということになれば、新聞発行は停止ということにならざるをえなかった。そのような条件の中に「うるま新報」は自由の限界もあったわけである。

当時、米軍では「デーリー・オキナワ」のタイトルでタブロイド4頁のオフセット刷りの新聞を出していた。その編集長ポーターは新聞記者出身で「うるま新報」に協力していた。

彼はGIではなしにシビリアンとして「デーリー・オキナワ」の刊行を任されていた。「うるま新報」の発行に必要な用紙、インクなどすべて資材の調達について彼は全面的に協力していた。彼は、あたかも軍政府から独立した者のように、資材を提供していた。用紙が不足して、マップ・ペーパーと称するケント紙に似たような厚手の用紙を「うるま新報」の倉庫一杯運んだこともあった。それは巻取紙がどの米軍倉庫でも見つからず、やむをえず運んできたのであった。その運送もポーターやハウトン大尉の世話で米軍用トラックを使ったものである。

島清は1946年(昭和21年)9月に東京へ引き揚げ、9月20日発行の「うるま新報」にその離任のあいさつ文が掲載され、社告で瀬長亀次郎の社長就任が発表された。その同じ紙面で、多家良肇(後に高良一)の久志支局長から糸満支局長へ、儀保為貞の胡差支局長から本社業務局長、比嘉栄の糸満支局長から久志支局長へ、徳松安領の胡差支局長の人事が発表された。この人事はすべて島清の置き土産であった。

首切りを回避するためには新聞を独立会計にする以外に方途がなかったので、軍政府もうるま新報側の提案を容認して、1947年4月1日の新年度会計から購読料月額10円で約3万の読者に配布することになった。約30万円あれば社員の給与を支払って余裕があった。しかも、その後も用紙やインクはデーリー・オキナワを通して無償で提供してもらった。

当然資材に対しては支払いをすべきであるが、米軍としては軍用のして沖縄に運んだ資材を販売するという手続きをとるわけにはいかなかったのであろう。

「販売制実施によって新聞社はいよいよ独立することになったので、その記念式を挙行することにして、知念高等学校の講堂をかりて4月26日に華々しく祝宴を開くことになった。知念高等学校は撤収した米軍施設をそっくりもらい受けて、教室の外に講堂を持っていた。そのころどこの学校にも講堂らしきものはなく、会合はすべて露天で開かれていたのである。祝賀宴をにぎやかにするために、琉球舞踊も披露することにして、舞台のある知念高校の講堂を借りたのであった。」(池宮城秀意著「沖縄に生きて」

祝宴のための資材、紅白の幕や泡盛や酒肴をさがすのにハウトン大尉は奔走してくれた。米軍将校たちも沖縄民間側の催す祝宴にはよろこんで顔を出していた。

1947年7月20日に石川市の城前小学校で沖縄人民党が結成され、瀬長亀次郎と池宮城秀意もその中央委員に名をつらねることになった。2人とも結成までの中心的な世話人であったので、自然の成り行きであった。初代の委員長には「うるま新報」の前原氏局長であった浦崎康華があげられた。

その頃から瀬長は人民党の中央委員として農村を駆け回って政治活動をはじめ、軍政府としては「好ましくない男」としてマークすることになった。新聞関係担当のハウトン大尉は石川の新聞社に池宮城編集長を訪問して「唯一の新聞である『うるま新報』の社長と編集長が一政党の幹部であることは好ましくない。『うるま新報』は中立で公正な立場に立つべきではないか」と申し入れ、人民党から離脱すべきだと強調した。当時、仲宗根源和らを中心とする民主同盟の動きも政党結成へと向かっていたし、ほかにも政党結成の動きがあった。そのような情勢の中で唯一の言論機関であった「うるま新報」が人民党幹部で支配するということは「公正を欠く」とするハウトン大尉(あるいは米軍政府)の言い分には妥当性も十分にあった。池宮城は編集責任者として、また健康上も政治活動にたえない状態にあったので、人民党中央委員を退いた。しかし、瀬長は政治を本命として活動をつづけていた。(琉球新報80年史通史編 36~37㌻より抜粋)

 

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