史料 松原多摩喜氏の回顧録から

ここ最近ブログ主は、瀬長亀次郎さんに関する記述をいろいろ調べているうち、面白い情報をいくつか発見しました。今回アップするのは瀬長さんの七高時代の恩師、松原多摩喜氏の回顧録『七高在職十七年の好ましくない思い出と自身の失敗の数々』から史料を掲載します(この文章は安仁屋政昭著 『沖縄の無産運動』 からの抜粋です)。

この文章は、おそらく瀬長さんが那覇市長を追放され、その後民連(民主主義擁護連絡協議会)で議長を務めた1958年あたりに書かれたと思われます。七高時代の瀬長さんは、アカの道に進んだことが父親にばれて、送金を停止されて大変困っていました。そこで現在の窮状を当時の担任であった松原氏に相談します。そのような背景があった点を頭に入れて松原氏の回顧録をご参照下さい。

『沖縄の無産運動』 安仁屋政昭(あにや・まさあき)著 – 三、資料紹介 学生運動の事例から(148 – 157㌻)

(中略)瀬長亀次郎は沖縄県立二中から東京の私立順天中学へ転校し、順天中学四年を終了して旧制七高(現在の鹿児島大学)へ入学した。東京時代に沖縄出身の東大生喜屋武保昌と知り合い、その指導で社会科学に目を開かれたという。七高では社会科学研究会に加入して放校処分をうけたが、担任教官の松原多摩喜が懸命に弁護したという。七高を追われて後、瀬長は日本鋼管芝浦製鉄所や川崎、鶴見の造船所で労働運動、反戦運動に参加、全協日本土木建築労働組合神奈川支部の活動家として検挙されている。その後も丹那トンネルのストライキ指導中に逮捕され、横浜刑務所から鹿児島へ、さらに沖縄刑務所へと送られた。この間、松原多摩喜は瀬長の消息を追いつづけ、戦後の動向についても担任教師として気にかけていたものである。松原多摩喜の回想録を通して学生運動の一側面を考えることもできるであろう。

私の担任生徒で当時理二甲一組に瀬長亀次郎という、思想的傾向のある真面目な頭脳明晰な沖縄中学より入学した秀才がいた。彼は貧困な生徒で、郷里よりの充分の送金も無く相当苦しかったのであろう。或日私の自室に来訪。そして学費困難で、学校を休学するか、辞めなければならない極限に来た事を逐一話して後、私の意見を聞いた。私も当時薄給の上、研究費も自腹を切らねばならず自身も困り抜いていた。然し頼まれた以上出来る限り奔走努力してやるのが担当教官の責務だ。破壊は一瞬、建設は容易でない。暫く待て、早まるな、我輩も全力を挙げて尽力して見るからと彼を慰撫した。姻戚にも富権者は相当いたが、金持程けちな人種はなく、人の子どころか、自分の子さえ碌に世話が出来ない人非人なのが常だ。誰にでも金の事とて相談出来ず、ある様で無いのが金なので相談して却って失礼するので困って了った。

当時鹿児島県農業会の技師として、私が学生の頃、中距離の選手をしていた時の監督だった1年先輩の大宅農夫太郎農学士が活躍していた。大宅氏は豪農の長男で、豪腹な義侠心の強い人だった。講演も上手で、画も歌も良くした多芸の好人物。そこで瀬長の件につき詳細を話し相談した所、心よく引受けて下された。彼曰く”弟が二中四年で成績も良好だが、彼は官立は嫌だ。慶応の経済に進学したい希望だが、官立以上の難関だから週2回家庭教師に来て下され。何とか善処するから”と。私も彼に委せた以上はその謝礼について一言も言わぬし、彼も金は触れぬ。年来の親友として私の気持は以心伝心だ。早速瀬長を呼び其の旨を伝え、真面目に指導する様命じた。彼曰く”先生御恩は忘れません。誠に有難うございます。今週から参ります”と。そこで彼を連れて大宅君の宅迄連れて紹介して帰った。其月は中旬を過ぎていたも不拘(かかわらず)、当時の金で金15円也の大金を支給して戴き、其上夕食迄も出されたり、大変可愛がって下さった。彼の顔色もよくなり元気に通学して真面目に授業を受けていた。

所が突然彼が思想問題の会合に出席した事が判明したと、鹿児島署特高課の知人より私に連絡があった。私は早速特高課の藤田刑事その他に面会し、学校に通告する前私が彼の身柄を処理するから、委してくれと再三再四執拗に出掛け交渉した。憲兵隊にも同様に。当時は思想学生には、皆恐怖心すら持ち、援護してやる所か、真偽も充分調査せず放校処分にされるのが常であった。余り幾度も憲兵隊や特高課に懇願に行ったので終には、私迄も赤の教官と間違われる結果となりそうになった。刑事等は、何故に赤の生徒をこれ程迄に擁護せねばならないのですかと強硬に詰問して来た。そこで私は”担任教官は生徒の親代りである。例え法令を犯して総ての人が見放して了っても私だけは最後迄見守ってやるのが、親の責任と考えている。従って私は、赤の刻印を捺されようがどうされようが最後迄見てやる”と答えた。

然し終に彼は教授会も開かれず、秘密裡に放校となって了った。大宅君には”彼は思想問題で放校になり、君の弟にも迷惑をかけてはおらぬかと心配している。又君に対しても面目次第もない”と平身低頭して赦しを乞うた。彼曰く”惜しい人物を失って了ったよ。真面目に熱心に弟に教えてくれたのに、別れをしてやるからもう一度合わせろ”との事で、私は彼を連れて伺った。夕食を共にした後、金10円を与えてくれた。私も船中の小使いにでもと虎の児の金5円を与えた。翌日の首里丸で帰国する事になっていたが、既に特高刑事に逮捕され自由の身ではなかったのであろうか遂に面会も出来なかったが、大宅君と私は船が佐田岬を過ぎ姿がなくなる迄見送ってやった。

当時沖縄県は特に出張入学試験をする様文部省より指定されていた。数年後私が出張試験官として渡った時、彼は那覇郊外の刑務所に思想犯として服役中である事を知った。入試は午前中で終わったので午後2時頃より彼を訪ねるべく自動車を呼んだ。運転手は刑務所へですかと反問したが、急ぎ行けと命じた。正門前で下車。●を通じて所長に面会を乞うた。応接室へ案内されて、2,3分後所長来室。初対面の挨拶をして後、瀬長と私の関係を委細に報告、是非面会出来る様取計ってくれと懇願した。すると所長は感激した面持ちで曰く”作業中ですが先生の温情に対して私の責任で、彼をこの部屋に連れて来ますから暫時お待ち下さい”と。

浅黄色の服役服を着て所長に連れられた瀬長亀次郎入室。彼は頭を挙げえず、流涙派頬を伝わり、床面に滴下し濡す。両人暫し声無し。師弟共に流涙。私は勇を鼓して発言。”瀬長暫くだったなあ。元気で良かった。君がここにいる事を聞いたので帰る前に是非一度会わねばと思って来た。刑が終わって鹿児島へ来たら立ち寄れよ”と。面会時間10分の中5~6分は無言で過したので遂に時間切れとなった。闘志満々の意思の人瀬長も情には打勝てず、懐しげに長い廊下を幾度となく、私の方を振り返り乍ら去って行った。

戦後或日新聞に那覇市長当選瀬長亀次郎氏との記事を見て、彼と同姓同名の異人なるやも知れずと思いつつ手紙を出した所、先生の御尋ね20数年前お別れした瀬長亀次郎ですとの返事が来た。其後数回文通したが開封点検された様子があり、却って彼に迷惑を掛けてはと考え文通を差し控える事にした。

彼は那覇市長として大いにその手腕が期待されたが、アメチャンにより資金凍結の経済封鎖を受け、遂に詰腹を切らされた前人民党書記長、現民連書記長として敢闘中なる事は諸士も御存知の事と思う。

瀬長亀次郎君よ!君の堅持する思想を死守して敢闘されよ。20数年前君に示した愛情は、今も尚不変である。世界人が総て君を敵としようとも松原多摩喜1人だけは、旧担任として親の愛情を持続しておる事を想起されよ。

醗酵菌と腐敗菌の作用は同一だ。腐敗菌より人間という一種の動物を批判させたら恐らくこう言うだろう。”人間は醗酵とか腐敗とか勝手に区別して醗酵菌は擁護するが、我々は眼の敵だ。人間という奴は自分達に利益になるものばかりを保護する”と。其通りだ。同様な現象であり乍ら、人間様に有利な分解体が出来るときは醗酵菌としてちやほやし、不利な分解体、例えば悪臭、有毒物質等生ずる時には腐敗菌と称して虐待する。

君の考え方は、沖縄では腐敗菌扱いされるが、時代を経れば醗酵菌に変るやも知れぬ。例えば Penicillium notatum の様に。

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