史料 – 喜友名の獅子群

平成27年(2015年)11月22日発行『喜友名誌 ちゅんなー』より石獅子群に関する記述がありましたので抜粋します(89~95㌻)。さすがに地元自治体の人達が編集・敢行しているだけあって、詳細かつ興味深い記述になっています。是非ご参照ください。アイキャッチ画像はブログ主撮影時点(平成30年6月18日)の 徳伊礼小(トゥクイリグァー・メー)の石獅子です。

二 シーサー(石獅子群)

『ぎのわんの文化財』(第三版 – 宜野湾市教育委員会)という小冊子がある。内容は文化財めぐりコースや市指定文化財の説明などであるが、喜友名の紹介に次の一文がある。

見出しは「シーサーの街 – 喜友名散歩コース」となっていて「部落をまるで碁盤の形に区画して古き街、その街を守るかのように集落を取り囲む七対の石獅子。〈シーサーの街 – 喜友名〉街中を散策すると、スージ路、ガジュマルや福木の大木、石積みの屋敷囲いに気持ちも安らぐ」

以下、喜友名の見所と紹介が続く。喜友名のシーサーに関するこのような、市教育委員会による紹介や村、他地域の人々を含めた先人達の調査研究のおかげで県内外に広く知られるようになっている。

そこで地元においても、シーサーの特徴・由来・所在場所等について、その概要をまとめて発信したい。

(1)市指定文化財「喜友名の石獅子群」

平成元年(1989年)3月31日「有形民族文化財」として指定される。

〈所在等〉喜友名区の旧集落のまわりを取り囲む石獅子群。指定された石獅子は6体。(平成25年に1対追加されて現時点では計7対)

〈内容〉村獅子としては沖縄最多の7対の石獅子で、他にヒージャーグーフーと呼ぶ石体があり、石獅子とあわせて邪悪なものから村を守る。

以上が市指定の概略となっている。

① 村シーサーの特質・伝来

沖縄の民家の瓦屋根や門柱、村ムラの入り口にはシーサーと呼ばれる魔除けが安置されている。

今日、沖縄の風物・文化として広く全国に知られるようになったシーサーだが、いつの頃から沖縄に伝わり、民間に広まっていったのだろうか。獅子の石像は沖縄で初めて作られたもとではない。シーサーは獅子・ライオンのことで、そのルーツは古代オリエント(エジプト・メソポタミア)といわれている。

沖縄におけるさまざまな民間信仰は、琉球王国が正式に中国と密接な関係をもつようになった14世紀、明代以降であり、シーサーも対外交流が活発化するこの頃に伝来したものと考えられる。

沖縄文化を代表するシーサーは宮獅子・御殿獅子・村落獅子・家獅子などに分類されるが、伝来当初は上層階級に受け入れられたと考えられる。古式のシーサーのほとんどが、古都浦添・首里に所在、王府の建造物との関連が深く、権威のシンボルとして制作されたと考えられる。

村落共同体の守護神・魔除けとしての村落獅子(喜友名のシーサーはこの範疇に入る)はいつごろから制作されるようになったか。これについて沖縄の正史『球陽』(尚貞21年西暦1689年)に次のような記述がある。

「始めて獅子形を建てて八重瀬嶽に向て、以て火災を防ぐ。東風平群冨盛村は屡々火災に遭い、房室を消失して民其の憂いに堪えず。是に由りて村人、蔡応瑞(唐栄の太田親雲上)に請乞して其の風水を見せしむ。応瑞、遍く地理を相し、之に嘱して曰く、我、彼の八重瀬嶽を見るに、火山に係る。早く獅子の形を作り、八重瀬に向くれば、以て其の災を防ぐべしと。村人皆其の令に従ひ、獅子石像を勢理城に蹲坐せしめ、以て八重瀬に向く。爾よりして後、果して火災の憂を免るると得たり」

このとき作られた石像が冨盛村の石獅子であり、村獅子の始まりといわれている。これにならって、各村々でも魔除け・火返しとして、作られたと考えられる。冨盛のシーサーが作られたのは17世紀後半とおもわれ18~19世紀に普及、一般化した。

喜友名の集落が地割制集落(仲松弥秀)、いわゆる碁盤型集落になるのは1737年以降と考えられるので、シーサーの普及時期、18世紀以後に作られたであろう。

ちなみに家獅子(屋根獅子や門柱獅子)の普及はさらに遅れる。歴史的にみると、1667年の建築資材の制限令、1737年の屋敷の大きさと部屋の畳数の制限令が公布され、身分による制限令があり、一般庶民が木造瓦葺きの建築ができるようになったのは1889年以後であり、沖縄独特の屋根獅子の普及は20世紀に入ってからである、といわれている。瓦職人が屋根の葺き作業を終了したとき、瓦のかけらや漆喰などを使い、シーサーを制作、置き土産としたともいう。

② 喜友名の村シーサー

喜友名を含め、沖縄のシーサーに関する調査・研究については沖縄村落研究所の長嶺操氏の著書がよく知られている。(『沖縄の魔除け獅子』昭和57年)

同著書の〈自序〉によると昭和52年~57年にかけての調査とも思われ、主に当時の喜友名の古老からの聞き取りとそれぞれのシーサーの向いている方角や実測などを行っている。また同氏が深く関わっている「沖縄歴史地図」(考古)中、石獅子の項も参考にしてまとめたい。

沖縄歴史地図によると村落獅子数について、一体型圏・二対型圏・多数型圏に分類、この分類によれば、喜友名は多数型となり、しかも現存する数が最も多い。その数については6体となっているが、その後埋もれていた1対(前當山前のシーサー)が見つかったので合計7対となる。

当時の向きと大きさについては図に示した通りとなっている。図中、現存するシーサーのその正面が向かうところを調査した資料から南向きが多いことがわかる。また周囲の地形などをみると、正面には火山(ヒーザン)や高い山、怪物と考えられる大岩、不気味な場所、仲の悪いむらなどがあると分析している。

喜友名の7対の村獅子はどこの、何を見据えているのであろうか。

沖縄に古来より続いてきた行事や習慣を見るとかつて、沖縄の集落では「シマクサラシ」または「カンカー」と呼ぶ魔除けの行事があり、それを村落の入り口で行ってきた。

また各家庭においては「柴差し」の行事が古くから行われていた。このような沖縄文化の土壌が村獅子・屋根獅子・門柱獅子を容易に受け入れ、定着されてきたのではないか。

牛や豚を屠りその血などを縄に塗って悪霊の侵入を防ぐ、といった風習・習慣は消えて、それに替わるものとして「獅子」が普及すると考えられないか。結論は下せないが今後の研究課題である。

③ ヒージャーグーフーについて

旧集落とシーサーが置かれている場所を示した図を見ると、集落最西端にある一体は「シーサー」と呼ばず、ヒージャーグーフーと呼んでいる。

これについて前述の著書に約60年前当時の喜友名の古老から聞いた伝承が記録されている。それは、「昔、南風原町で大火事があったらしい。その災難が喜友名までおよばないようにとの理由で安置されている」ということであった。

一方、字誌の編集作業中、何度か聞いた聞き取り調査において、ヒージャーグーフーについて次のような(推論)証言もあった。もともと喜友名集落の最西端は我如古、屋号中元であった。やがて小字前原の方へ集落が広がっていく。そこで新たに作って置いたのではないか、ということである。

なお、ヒージャーグーフーが置かれているところは他の7対とは異なり、写真のように築山の上部にある。これに関し、隣村・新城の風俗・習慣を書いた『シマの話』- 風俗・明治の沖縄 – の中に次のような一文がある。「シマへの入り口には石体がおかれてシマを守護するものと信じられていた。全ての入り口というわけではなかったが、数ヶ所にあった。そのなかで最も著しいものはタキの東南の方ので、此処に小さい築山を築き、からに大きな石が置かれた。これらの石の事をシマのケーシ(返し)と称した。邪神を反してシマに入れない意である」と。

この中にある大きな石の返しの所はシマの運命を掌る場所であると信じられていた。同じような築山が作られ、その上部に置かれているヒージャーグーフーの石体も同様の意味を持つのであろうか。

(2)それぞれのシーサーの位置及び伝承

① 中元前(ナカムトゥ・メー)の石獅子

獅子は宜野湾の役場に行く道に向いている。毎年、綱引きのメンダカリの一番ガナテはこの石獅子前でつくった。年寄りは石獅子の後ろにある広場のガジュマル下、日陰で藁を編み、網打ちは反対側の屋敷の角で行った。

② 前ン当前(メントー・メー)の石獅子

宜野湾の村に向く。南方面に毛(野原)があり、チュンナーヒラマーチャー(喜友名平松)もそこにあったと伝わる。

③ 前眞志喜前(メーマシチー・メー)の石獅子

石獅子の前に、宜野湾・神山への道があった。

④ 蔵根小前の石獅子

他の石獅子は村境にあるが、この石獅子は部落内にある。石獅子の前の道幅が広くなっており、ここに有力者の家があったからだ、とも伝わる。南方向にスージミチが延びており、その突き当たりに位置している。(このような場所では他では「石巌当」が置かれるところである)

⑤ 伊礼小の石獅子

新城に向く。石獅子の前を新城道が走り、新城から伊佐や海に行く人が通る道である。道に面するところにあったが、屋敷をブロック囲いにしるため、いったん南側数㍍のところに移し、今はブロック塀の上に置かれている。(もともとあった箇所の上方に位置する)

⑥ 徳伊礼小(トゥクイリグァー・メー)の石獅子

この石獅子は置かれている場所が何度か変わっている。大正初期生まれの方の話でははじめはもっと集落の内(現中道寺前)付近にあり、集落の家々が、畑地だった東のほうへ増えるにつれ移動、徳伊礼小(トゥクイリグァー)と西隣の現アパートの間に置かれた。さらにシオン幼稚園の後方の道沿い、ブロック塀に接する箇所に移動した。ところが塀に平行に置かざるを得なかったので、正面が民家の方向になってしまった。その向きを変えてほしいとの要請があり、当時の自治会長、新垣清涼は教育委員会の指導・指示のもと、現位置に移動したという。

⑦ 前當山前(メートーヤマー・メー)の石獅子

設置場所は喜友名集落への入り口にあたり、メンダカリとクシンダカリの分かれ道ともなっている。喜友名泉(チュンナーガー)から水くみの時、急さかを登、ほっと一休みする休憩所、ウィーユクイビラがある場所の一角にあった。しばらく地中に埋もれていえが、道路工事の際に見つかり、現在にいたる。

・参考:喜友名旧集落とシーサー

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