尚育王直筆の書状発見のニュースに関して思ったこと

7月20日の沖縄タイムス1面に、「尚育王、薩摩藩士に書状」の見出し記事がありました。ブログ主にとって非常に興味ある内容でしたので当ブログにて紹介します。先ずは全文をご参照ください。

第2尚氏第18代琉球国王の尚育(1813~47)が19世紀半ば、薩摩藩士に送った直筆の書状が、広島市内の個人宅に保管されていることが19日、分かった。これまで公になっていない新発見の書状で、確認した法政大学沖縄文化研究所国内研究員の上里隆史さんは「国王が比較的身分の低い藩士に送った直筆文書は珍しい。幕末の琉球と薩摩の政治史を考える上で貴重な史料だ」と話している。

書状は縦41.2センチ、横50センチ。中央を折り曲げた「折紙」と呼ばれる古文書の形状で、尚育の署名代わりの記号「花押」が記されている。日付は「正月二十一日」(1月11日)。日本の武家文書の形式で、薩摩藩士の二階堂右八郎宛てに年始のあいさつなどが書かれているが、書状が途中で切れており、詳しい内容は不明。

近世琉球は1609年、薩摩藩による侵攻後、独立国の体裁を持ちながらも薩摩からの支配を受けていた。上里さんによると、二階堂は1844年に琉球へのフランス艦隊の渡来時、薩摩が琉球に派遣した武装兵のリーダー。書状は同年以降、二階堂ら薩摩藩士に送られたものとみられる。当時はアヘン戦争(1840)で清がイギリスに敗れ、東アジア各国が異国船の渡来に神経をとがらせていた。薩摩が琉球に武装兵を送ることも異例で、琉球国王が薩摩藩士へ書状を送り、連携して異国船に対処していた可能性がある。

書状を所有する広島市在住の薩摩藩士の子孫の男性(56)は「自宅で花押が特徴的な書状を見つけたため、ネットなどで情報収集した。琉球史のブログえ熱心に情報発信する上里先生がいなければ、書状の確認はできなかった」と説明。上里さんは「琉球の文書がまだ県外に眠っている可能性がある」と話している。

上記の記事で興味を引いたのは、琉球王国末期に薩摩藩士が異国船警備のために武装兵として琉球に派遣されていたことです。偶然ですが、ブログ主は東恩納寛惇先生著の『尚泰候実録』を読んでいる最中で、その著書の初っ端に以下の記載がありましたので抜粋します。

弘化元年(1844)甲辰(きのえたつ)候二歳

(中略)是の年三月十一日、仏蘭西国船一艘那覇に来り、通信、布教、貿易の三条を請ふ事甚急なりと雖、洋中孤懸の小島大国を待つ資力なく、且、宗教は既に孔孟の道、人心に薫染する事久しければ、今俄かに他教を導きて之れを蠱惑(こくわく)す可きにあらずとし、陳弁辞謝すと雖、肯ぜず。期年の後、再来て請ふ可しと云ひ、強ひて宣教師一名、支那人一名を留め、居る事九日、其の月二十日、抜錨して去れり。仍て二人を天久の聖現寺に扶持せり。年の六月五日向氏浜比嘉親雲上(朝宜)を薩摩に遣し、此の事を告げしむ。於是薩摩兵二百余人を送り、外警に備へしめたり

さらに「二階堂右八郎」を検索すると、『琉球外国関係文書』に下記の記載がありました。

○琉球国ニ守衛派遣ノ兵員及ヒ武器ノ数 第一陣、六月二十五鹿児島出発

六月廿三日

琉球国警備ノ為メ出兵スベキ旨ノ報到ル此時国老等ハ予メ出兵ノ準備ヲナシ命令ノ到ルヲ待チタルカ故同月廿五日左ノ人員ニ派遣ノ命ヲ発シタリ

番頭兼御用人 二階堂右八郎(行健後静馬ト改ム)

(中略)

足軽六十人

外ニ右人員従者七十三人 合計上下百五十九人

(中略)

右至急渡海スベキ旨達セラレタリ。

○琉球警吏半ハ帰国ヲ命ス(弘化二年三月)

去年三月、其元へ仏朗西国船来着異国人一人唐人一人残シ置、又々大総兵船可致来着トノ趣故、為御用心一組之人数差渡被置候処、今以大総兵船モ来着無之何ツ頃来着之程モ難計候付、別段御吟味之訳有之別紙其方始松本十兵衛一列ハ此涯致滞在、近藤彦左衛門一列ハ中途代(交換ニ関セサル通語)ニテ交代被仰付候間、此涯引取候様申渡当夏登リ船々ヨリ繰合罷登候様可取計候、乍然大総兵船到来着候歟又ハ近々来着等之模様ニモ候ハヾ時宜次第在版奉行ヘモ申談臨機応変之取計可致候、且又残シ被置候人数ハ長滞在ニモ相成事候付、折角致和熟謹慎第一之事ニ候、且又家来末々之者共万一モ唐物又ハ琉球産物等交易(唐物品ヲ当時斯ク唱ヘタリ)等敷儀共有之候テハ決テ不相成事候付稠敷取締可申渡候其余之儀在番其外ヘモ申談隠ニ有之候様可取計候右旁委細ハ野元一郎ヘ申含越候間、承知可有之候、此段御内用ヲ以申越候以上

但足軽拾五人(第一着ニ足軽ヲ派出セリ其人員)人柄之儀ハ其方見計可残置候

巳三月 調所笑左衛門 島津岩見 島津主計

二階堂右八郎殿

去年三月其地ヘ異国船来着ニ付二階堂右八郎其外被差渡置候処、又々本船来着モ難計候付、右八郎儀此涯致滞在候様別紙之通被仰付候付其談申渡追テ返答可申越候以上。(中略)

*この後は琉球に滞在する人員等についての記載あり。

念のため『球陽(巻二十一)』も確認したのですが、今回の案件に相当する記述は見当たりませんでした(後日再確認する予定)。今回の記事は実に興味をそそる内容でしたのでブログ主でも関連した情報をチェックしてみました。今回は幕末の薩摩藩と琉球の関係を垣間見ることができる良記事を配信、政治が絡まないケースでは地元新聞もなかなかやるなと感心した次第であります。(終わり)

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【関連リンク】

琉球国ニ守衛派遣ノ兵員及ヒ武器ノ数 第一陣、六月二五日鹿児島出発 

http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/yokoyama/okinawa/ok020008.htm

琉球警吏半バ帰国ヲ命ス 弘化二年巳三月 調所笑左衛門・島津石見・島津主計 二階堂右八郎殿(第十一冊ノ三にもあり) 二階堂へ滞琉ヲ命ス 滞琉ヲ命シタル人名 

http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/yokoyama/okinawa/ok070006.htm

 

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