山口組の失敗

(続き)前回の記事で、アメリカ世から復帰後にかけて山口組の沖縄進出が失敗した理由はただ一つ “人材選びを誤った” と言及しました。今回はブログ主の手持ちの史料を利用して、この点について言及します。

ちなみにアメリカ世時代に山口組が沖縄に進出できなかった理由のひとつは、本土から見ると沖縄は “外国” のため移動の自由が制限されていたからです。具体的には山口組のような黒社会に属する人物にはパスポートが降りない可能性があります。そして鹿児島から与論を経由しての密航ルートも常に移動リスクが伴いますので、やはり外部のアンダーグラウンド勢力にとっては沖縄は極めて進出しにくい場所であったわけです。

ただし昭和44年(1969)年頃から日米交渉によって沖縄の本土復帰が現実味を帯びてきた情勢に伴い、山口組は本格的な沖縄進出を試みます。その証拠の記事を書き写しましたので、読者のみなさん、是非ご参照下さい。

沖縄出身暴力団幹部ご用

尼崎でとばく沖縄進出のパイプ役

【大阪】兵庫県警捜査四課と尼崎東署は、2日未明トバク開帳中の尼崎市長洲大門51、暴力団山口組系親琉会幹部、坂中翠(42)宅を急襲、胴元の同士東灘波町1の28、同会会長、神里恵勇(46)=本籍・平良市下里867=ら6人を常習とばく現行犯、張り客11人(うち女5人)を単純とばくの現行犯で逮捕するとともに、現金100万円余、ツボ、サイコロ、張り札などとばく道具一式を押収した。

親琉会は山口組系小西(音)組の翼下で、昭和44年5月、尼崎に住みついた神里が同じ沖縄出身のばく徒、テキ屋数人を集めて結成、尼崎市内の長洲、抗瀬、猪名等をシマに、バクチのてら銭を主とした資金獲得に活動、山口組勢力の沖縄進出のパイプ役として勢力を伸ばしてきた。全組員50人の過半数を沖縄出身者が占めている(下略)(昭和47年4月3日付琉球新報夕刊03面)

参考までに手入れを食らった賭場は昭和34年から山口組によって運営され、月平均1千万の てら銭を稼げる有力な資金源でした。つまり山口組側としてはカネも人材も準備の上で、昭和45年(1970)4月に那覇に進出します(*国琉会、国仲寛一会長)。しかも沖縄には親山口組の東亜友愛事業組合(旧東声会)があり幹部ら人材交流も活発です。まさに “万全を期した” 状態で山口組は沖縄に乗り込んできましたが、それでもうまくいかなかったのです。

*親琉会の沖縄支部(下部組織)として那覇に事務所を開きます。その際に東亜友愛事業組合からのバックアップがあったことは疑いの余地がありません。

だがしかし、よくよく考えるとうまくいかないのは当然なのです。親琉会会長の神里は宮古出身とはいっても活動ベースは尼崎にあります。親琉会に所属する沖縄出身の組員も同様で、地元沖縄に強力な縄張りも人脈もなかったのです。もちろん那覇進出の際に、地元の那覇派や山原派と調整を重ねた形跡はありません。その傍証に国琉会は琉球警察と那覇派・山原派がタッグを組んで沖縄から追い出されたのです。

その後山口組は国琉会の失敗を教訓に、地元沖縄に縄張りや人脈のある知名度抜群の人物を選び、沖縄進出を企画します。それが上原勇吉・秀吉兄弟ですが、今度は選んだ人物があまりにも悪かったのです。事実上原兄弟は、那覇派の又吉、山原派の新城、旭琉会初代会長の仲本らとは比較にならない人物で、沖縄に山口組の勢力を拡大できる力量はありません。むしろ暴れすぎて地元沖縄の反山口の感情を極限まで増幅する結果になってしまいます。

旧東声会が沖縄に支部を構えるためには冝保俊夫さんという傑出した人物が必要でした。復帰後に日本共産党が沖縄で勢力を拡張するには、やはり瀬長亀次郎さんの存在が必要不可欠でした。両組織とも沖縄進出に当たって時宜にかなった適切な人物を選んでいますが、山口組はまさにその逆です。

ブログ主が思うに山口組が本格的に沖縄進出するには人脈最強の又吉世喜を口説き落とすしか方法がなかったはずですが、それができなかった時点で山口組の失敗は必然だったと確信して今回の記事を終えます。

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