ロックとコザ(1994)川満勝弘(愛称:カッちゃん)編 – その5

□勉とのつき合い (外間)勉とは家が近いので「こういう音楽もあるよ」と、レコードのやりとりをする仲でした。

私たちの高校時代に、瑞慶覧基地(北中城村)や嘉手納基地とかでゴーゴーダンスコンテストがありました。今でいえばパレットくもじ(デパート)なんかで高校生が踊ったり、ディスコでひっくり返ったりして踊っているものと同じです。これを高校三年のときに、私と外間勉の二人でずっとあちこち荒らしまわっていたんです。勉はおしゃれな踊りが上手かったけれど、私の場合はどちらかというとクセのある踊り方でした。

勉のお姉さんはみどりといいますけど、幸雄の初恋の人なんです。今はすごい素敵なアメリカ人と結婚してアメリカにいます。妹がまだ綺麗な品のある方で、この方に私は少し惚れようとしてふられたんです。私はその方に卓球を勧めて、卓球の道具も全部買わせて、部に入れて、卓球を教えていたんですけど、「カッちゃん、また他の女の子に真剣に教えている」って、「全部道具そろえて、私には一月に一回しか教えないのに、これじゃ上手くなるわけない」といって、辞めてしまったんです。その人はお医者さんと結婚して今とっても幸せになっています。

□音楽との出会い 私は、宮古では音楽との接触はなかったんですが、このコザに来てからは小学五、六年からもう軒並みにジュークボックスが鳴ってうるさいし、ラジオ放送は琉球放送がまだメジャーじゃないころですが、そのころはKSBKというアメリカ人むけの放送があって、もう米軍放送が凄いわけです。そこから音楽がダイレクトに沖縄に来ていました。日本本土ではその後五、六年たってからそういうヒット曲が出てきたんですよね。

そういうので常に耳慣れしているし、また、誰かに連れて行ってもらったと思うんですが小さいころに、嘉手納基地の中でやっている五〇人ぐらいのジャズのフルバンドとかもたまに見て、バンドってこうやるんだというのを知ったんです。

Aサインバーは、昼の三時、四時くらいからバンナイ・バンナイやって(盛んに営業して)いましたから、店の中が見えるんです。それで、中学、高校から家に帰るときには、ジュークボックスから音楽が聞こえてくるので、「アッシャビ・ヨー(感嘆詞)、ジュークボックスのあの曲はいいなー。踊り方もカッコいいなー。このアメリカ人は上手い、あいつはあまり上手くないなー」とか思いながらのぞいていました。

私は、小学校からああして音楽を聴いていましたが、中学校時代はスポーツばかりですし、高校生活も音楽とは全然関係ないんです。それで、楽譜も読めないんです。

だからよく「コードもコの字もわからないで歌えるね、あのバカは」といわれます。

□東京でバンド結成 私が高校を卒業した年に、幸雄を訪ねて東京へ行ったんです。

ヤマト(本土)になんかへんなバンドが、エレキバンドかフォークバンドか何かわからないけど、大学であるとというので、それを見に行ったり、また、勉が大学行ってギタークラブに入っていて「ベンチャーズ(バンド名)」みたいなものをやっているというので、「アリガ・ギター・ヒチュン・バー(弾くのか)、マサカ・ヒャー(まさか)。じゃー見に行こう」といって見に行ったら、勉に「エー(おい)、カッちゃん、聞けよ」と弾いて聞かされて、「ワー・シェッ(感嘆詞)、カッタ・グワー・カッタ・グヮー(カッコいいカッコいい)」と思ったのです。

もうこれからさ、私は「これがギターか、エー(おい)、ベースは」と聞いて、「ベースは弦が四つあるわけ、低い音が出るわけさー」といってボン、ボンと弾いて「ウリ(なあ)低いだろう。トォー(よし)これさー」というふうに勉に教えてもらって、それから「じゃー、カッちゃん、もしも興味があるなら喫茶店に行って、一週間に一回バンドがあるから見に行くか」と勉にいわれて、これを見たわけですよ。

それで、「ドラムはこうしてやるの、ベースはあんな、ギターはこんな。エー、チュクラ(おい、作ろう)」と、幸雄がいて、勉もいて、私の三人でバンドを作ろうということになったんです。

音楽はいつも聴いているから、これはもう見るよりはやった方がいいということで、「幸雄、お前は指がタッピラ・クー(平たい)しているから、太い弦おすのに適しているからお前ベースね」、勉はもうギターをやっているから、私は体操やピンポンやって反射神経がすごいからということで、「お前は右手と左と違う、へんちくりんなドラムやれ」ということになって、「トォー(よし)決まり。ミッチャイ決定ヤー(三人決定な)」といって決まったんです。

そのとき、勉は大学行っていて、幸雄はどこかの会社の電機製品の営業マンをやっていたのかな、私はそこへ訪ねていっているので、三人夜集まって自分たちのアパートで練習していたんです。それで、モクマオウの枝を折ってきて、扇風機の頭を叩いたり、雑誌を置いて叩いて、「右足がチガイッ・サー・ヤー(ちがっているな)、左はあっているか、右は」というふうに練習をしていました。

それで、はじめてドラムのリズムができたときに「沖縄に凱旋しよう」といったりしていました。ワッター・フラー・ヤサ(俺たちバカだね)。また「曲が十五曲できたから、ディカ(さあ)沖縄に行ってコンサートしよう」といって、一九六七(昭和四二)年に琉球新報ホールでコンサートをしました。(続く)

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