(続く)前回の記事において、糸数真會長の青年時代の経歴について言及しましたが、今回は皆さん(特に党運営ブログの読者であれば)ご存じの昭和57年(1982)10月9日未明の多和田真山旭琉会会長(当時)射殺事件について触れます。
この事件はついうっかり(意訳)とはいえ、沖縄社会に与えた衝撃は大きく、主犯の富永一家幹事(当時)糸数青年はド派手な全琉デビューを果たします。それでは琉球新報朝刊1面※に掲載された糸数真さんの若き日のご尊顔をご参照ください。
※昭和57年10月10日付琉球新報朝刊1面(初公開)
同日15面には連行される糸数青年の写真が掲載されていました(初公開)。
同日の沖縄タイムス朝刊1面ですが、糸数真さんの出身地が久米島村具志川と表記されています。実は琉球新報では具志川村と仲里村と表記された記事があり、両紙を比べた結果、仲里村は誤植であり、具志川村が正しい出身地であることがわかりました。
なお取り調べにおいて糸数さんは「真山(多和田会長)のワンマンぶりがことしになって横暴を極め、暴力団の組織内部であんまり威張りくさっていたので(不満が募って)殺した」(昭和57年10月11日付琉球新報夕刊3面)と単独犯であると主張しているので、いまとなっては真相は不明ですが、事件の結果彼は15年ほど社会不在(一説では岐阜刑務所に就職)となり、1998年ごろ※に沖縄旭琉会に “復職” します。
※「旭龍」によると糸数さんの出所は平成9年(1997)との記述があります。
ここで気になるのはこれだけの事件を起こした主犯が組織に復帰できた理由ですが、よくよく考えてみると沖縄では “前例” があるのです。一つ目が糸数さんに射殺された多和田会長で、彼は昭和37年7月29日に兄貴分の安富登さんの喉をナイフで一突きしてついうっかり即死させ、結果10年ほど刑務所で過ごす羽目になりましたが、服役後は沖縄連合旭琉会の又吉世喜理事長や金城正雄さんの下で実績を積み、昭和51年(1976)12月には二代目旭琉会会長に就任します。
もうひとりは昭和49年(1974)10月24日に新城喜史理事長(当時)を射殺した日島稔さんで、事件後は徳島刑務所に13年ほど “就職” した後、服役後は一般人としての人生を歩み、平成21年3月に海難事故で亡くなります。「沖縄誰にも書かれたくなかった戦後史〈上〉」(佐野眞一著)によると、
日島はいまでも、「ユートピア」で肩を撃ち抜いて重症を負わせた稼業の男から「ミノルは元気でやっているらしいな。頑張るように言っときよ」と人づてに励まされているという。(同著262㌻)
との記述がありますが、実は稼業の男とは(射殺事件当時に)ボディーガードをしていた上里忠盛さん(沖縄旭琉会幹事長上里一家総長)であり、昭和から平成初期にかけての沖縄アングラ界は案外ゆるゆるだった部分があったのかもしれません。
それと旭琉会が三代目旭琉会と沖縄旭琉会に分裂していた影響もあるでしょう。いくらゆるゆるとはいえ分裂前の旭琉会であれば戻ってこれなかったかもしれません。なにはともあれ復職した糸数さんは沖縄旭琉会二代目富永一家総長の上江洲丈二さんのもと、やくざ人生を再開させます。参考までに引用の動画をご参照ください。平成20年(2008)7月中に執り行われた溝下秀男氏の本葬儀の映像ですが、富永清沖縄旭琉会会長の名代として参列した上江洲丈二さん(22:59から)に同伴している糸数真さんの様子がうかがえます(23:36)。
※左から糸数真(役職は不明)、又吉敏廣(又吉一家総長)、與那哲也(龍神一家総長)、永山克博(二代目照屋一家総長)。役職は「沖縄ヤクザ50年戦争(2004年刊行)」から引用。
ちなみに溝下秀男氏の本葬儀のころあたりから、沖縄ヤクザ業界でも “雪解け” が進み、三代目旭琉会と沖縄旭琉会の幹部交流も行われるようになります。その流れで糸数氏にこれまた運命的な出会いが訪れます。それが沖島一家若頭(当時)知念秀視氏との交流です。(続く)


