【追悼】糸数真會長の経歴(3)

(続き)前回の記事において、出所後に沖縄旭琉会に復職した糸数さんについて言及しましたが、第六次沖縄抗争(1990.9~1992.2)から10年以上を経過したころには、(当時分裂していた)沖縄旭琉会と三代目旭琉会との幹部交流が再開します。その流れで糸数さんと三代目旭琉会沖島一家に所属していた知念秀視若頭との付き合いが始まり、最終的には狩俣重三さん(沖縄旭琉会功揚一家若頭)も含めて五分の兄弟分となります。

※このあたりのエピソードは「旭龍」からの引用になりますが、必要に応じて他史料も参考にしています。

彼らの交流は双方に多大なメリットをもたらしますが、糸数さんにとっては知念さんを通じて(親である)花城松一さん(三代目旭琉会沖島一家総長)の信頼を得たのが一番大きかったです。ここで簡単に花城松一氏(通称マチューさん)に触れておきますと、彼は沖縄連合旭琉会の結成式(昭和45年12月8日)にも参加した(当時は)平幹部クラスの人物であり、もちろん糸数さんから見て雲の上の存在でした。

ただしマチューさんは昭和51年(1976)1月30日那覇市松山において、同格の旭琉会組員(我喜屋某)と口論となったさいについうっかり射殺した事件の結果、熊本刑務所に12年間 “就職” することになり、昭和63年(1988)に出所します。出所後は旭琉会に復職しますが、その時は(これまたついうっかり殺人事件の主犯として)糸数さんが社会不在であり、しかも旭琉会分裂騒動の結果、花城さんは三代目旭琉会、糸数さんは沖縄旭琉会に所属となってしまいます。

本来であれば、ガチガチの敵対関係なんですが、糸数さんは知念若頭を通じて花城さんと交流を持つことができ、そしてそのことが沖縄ヤクザ会に決定的な影響をもたらします。それは平成21年(2009年)3月30日、糸数さんは富永一家継承披露を行いますが、その際に花城松一さんをはじめ三代目旭琉会の執行部が継承祝賀会に参列したのです。もちろん第六次沖縄抗争以降、両組織の執行部が公の場で顔を合わせたのはこれが初めてであり、そのニュースは全国の業界にあっという間に広まります。

糸数さんの富永一家継承は沖縄ヤクザ業界にとって非常に大きな意味を持ちます。もちろんご本人にとっても(敬愛すべき)富永清会長が立ち上げ、同郷の先輩である上江洲丈二さんが継いだ名門の三代目を襲名すること自体大変な名誉なんですが、三代目継承祝賀会に両組織の執行部が参列したことで両組織の “雪解け” が進み、その結果一本化の流れが加速し、平成23年11月27日に「旭琉會」が誕生しています。

つまり糸数さんは、沖縄ヤクザ業界から見ると “一本化の象徴” なんです。これこそ

ヤクザ冥利に尽きる

というか、旭琉會関係者曰く「一本化した組織同士の過去のしがらみ解消に尽力していた。人望厚く、慕われる『沖縄ヤクザの手本』ような人だ」(令和8年4月19日付琉球新報デジタル版)の評価も納得なんです(続く)

【初公開】会長秘書として旭琉會を支えた糸数真三代目富永一家総長のご尊顔です(動画が削除されていたのでスクショ画像をアップします)

・知念秀視さん(現・旭琉會理事長)について、彼に関しては公開されたメディアでの史料が少なく、ブログ主がその存在を知ったのは「沖縄ヤクザ50年戦争」の中で三代目旭琉会の若手たちについて言及した箇所が初めてですが、彼は業界内での評判が非常にいいことで知られています。その傍証として竹垣悟チャンネルで竹垣氏が知念理事長について言及した箇所があるのでご参照ください(2:21から)。