復帰協が残した教訓 – その1 プロローグ

防衛省が今月14日、海上自衛官の輸送艦で宮古島に弾薬を運び入れた案件で、地元では一部の市民活動家が抗議活動を行っているとの地元メディアが報道していました。

ブログ主は紙媒体の記事および電子版の両方に目を通してみましたが、予想に反して現場の様子を淡々と報道した感があります。というのは以前、49年前の昭和47年(1972)10月2日、沖縄に自衛隊が初配備されたときの関連記事に目を通したことがあるからです。

今回は試しに沖縄県祖国復帰協議会(以下復帰協)が主催した自衛隊に対する初の抗議活動の様子を当時のマスコミがどのように報じたか、無修正版をアップしますので是非ご参照ください。

強行配備、即時中止を復帰協決起大会、1万人が参加

〔昭和47年10月〕2日から始まった県民無視の自衛隊配備、キャンプハンセン内で起きた米軍人による軍従業員射殺事件、当真さんれき殺無罪判決に抗議する復帰協(桃原用行会長)の「自衛隊強行配備・米兵による虐殺事件糾弾県民総決起大会」が6日午後6時すぎから那覇市内奥武山球場横広場に1万2千人(主催者発表)が参加して開かれた。大会は5.15後初めての1万人規模の動員で盛り上がりをみせ、10.21反戦デー、年末にかけての反自衛隊、反基地闘争口火が切られた。大会では県民の意思を踏みにじった自衛隊配備、軍事優先、米軍の民族べっ視、占領意識がきびしく糾弾され、自衛隊配備の即時中止を要求するとともに栄野川さん虐殺当真さんれき殺無罪判決に抗議する決議を採択した。このあと、大衆行動として初めて自衛隊基地にデモした。9時ごろ流れ解散地点の那覇軍港第一ゲートをデモ隊の一部が破って突入、ゲート付近で激しいうずまきデモをしたが5分後、ゲート外に出て解散した(下略)(昭和47年10月7日付琉球新報朝刊1面)

写真部分の「人殺し日本軍は帰れ」の部分は現代なら間違いなくアウトな記述ですが、試しに同日朝刊11面もご参照ください。

殺し屋軍隊は帰れ!自衛隊配備反対総決起大会

「殺し屋自衛隊は帰れ!」「人殺し日本軍来るな!」、自衛隊の本格配備に向けて立ち上がった県民が6日、那覇市ホイル・エリアの陸上自衛隊那覇分とん地へ、怒りのデモをかけ、金網のかげにかくれる自衛隊員へシュプレヒコールをくり返した。自衛隊強行配備反対・米兵による虐殺事件糾弾県民総決起大会に集まった1万2千人の労働者・学生・一般県民は、返還を要求している国道331号線の坂をじわじわとのぼり、潮のように自衛隊基地をめざした。デモはこれまでになく整然と行われ、ゲート前では約1時間半にわたって「基地撤去」「自衛隊は出て行け」のウズが続いた(下略)

時代と言ってはそれまでですが、当時の反自衛隊闘争に関する記事をチェックして痛感したのが、一部沖縄県民の被害者意識の強さです。昭和20年(1945)の沖縄戦からまだ27年から経過していませんので、「われわれは日本軍国主義の犠牲者である」との想いを抱く個人、および社会階層が濃厚に存在するのは理解できます。だからこそ「人殺し」などの感情的かつどぎつい表現で自衛隊を罵るわけです。

問題は、そのような人たちは常に “被害者ポジション” で抗議活動を展開するがゆえに “相手の立場を慮る” ことができなくなってしまう点にあります。だから民主団体は内輪もめが多いのですが、その典型例が復帰協です。参考までに我が沖縄県民はこの手の輩は “敬して遠ざける” のが常ですので、復帰後の復帰協も例にもれず、世間から見捨てられて悲惨な状況に陥ります。

次回、財政難に陥って団体そのものの存続の危機に陥った復帰協について言及します(続く)。

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