新城喜史さんについて知っていること

今回は、ブログ主からのちょっとしたサービスで、これまで蒐集した新城喜史さん関連の史料の一部を公開します。ちなみにブログ主が想定する彼のイメージは、“悪いアントニオ猪木” ですが、その心は ① 人相に特徴がある。② 人当たりがよく誰からも好かれるタイプ。③ただし、思いつきで行動する傾向が強いので、周りに迷惑をかけてしまうでしょうか。

新城の場合は、特に思い付きの行動が多すぎて、兄貴分の喜舎場を始め、全方位で迷惑をかけてしまうケースが多々あります。にも拘わらず、彼は「ミンタミーだからしょうがない」と苦笑いされて許されてしまう不思議な魅力を備えています。もしかすると、沖縄連合旭琉会の初代会長の仲本善忠さんあたりも、そんな感じで彼のやらかしをフォローしていたのかもしれまん。

前の記事でも言及したとおり、彼については信頼できる史料が少なく、実情が把握しにくいのが難点です。それでも、おぼろげながら新城喜史の人物像が浮かび上がってきましたので、ブログ主が調子に乗って言及します。沖縄ヤクザネタ好きの読者のみなさん、ひさびさの連投記事になるので歓喜に震えながらご参照ください。

1.新城喜史の生まれはおそらく昭和4(1929)年である。昭和49(1974)年10月24日に起こった射殺事件に関する記事をチェックしたところ、沖縄タイムスと琉球新報ともに、彼の年を45歳と記述しているので、昭和4年生まれが最有力かなと思われます。ただし、沖縄戦の影響でアメリカ世時代の戸籍作成作業が極めて難航し、生年月日が不明の琉球住民が存在したケースもありますので、もしかすると彼も戦前の戸籍は紛失してしまったのかもしれません。

2.生誕地は大宜味村塩屋である。彼は山原出身であるとの伝聞情報が散見されますが、昭和37(1962)年1月25日付琉球新報の記事に、コザ派の暴徒・新城喜史(35)=大宜味村塩屋765と記述されているので、この点は確定です。もうひとつ、この記事によって彼が前年9月の西原飛行場における又吉世喜リンチ事件に参加している事実が裏付けされました。

3.彼は当初血の気が多いせいか、“アパッチ” と呼ばれていた。その後 “ミンタミー” と呼ばれるようになったが、何時頃からそうなったかは不明。

4.田場盛孝に殺されそうになったことがある。那覇派とコザ派の対立が頂点に達した昭和37(1962)年12月5日、田場の経営する普天間のパチンコ店に新城と側近格の親川正彦が話し合いのため訪れたところ、田場がいきなり猟銃を持出して発砲しかけるという物騒な事件が起こります。ちなみに昭和37年当時、田場は那覇派に所属していました。もしもこのとき新城が射殺され、田場が逮捕されていたならば、りうきうアシバーの歴史は大きくかわっていたのかもしれません。

4.彼の側近格は、アメリカ世時代は(前述した通り)親川正彦さん、與古田徳重さん、昭和40(1965)年の山原派と泡瀬派の対立の際に彼が刑務所から出所した後は仲宗根善村さん、沖縄連合旭琉会時代は、おそらく島袋為夫さんでしょう。あと上里忠盛さん、富永清さんが彼のボディーガードを務めていた知られていて、特に上里さんは昭和49年10月24日に新城が射殺された事件で、彼も銃撃され左肩に重傷を負ってしまいます。

5.昭和49(1974)年10月24日の射殺事件の翌日、彼のおくやみ広告が新聞に掲載されたが、改めてチェックすると、経済的に彼が一族を支えていた事実が伺えます。

6.沖縄ヤクザの歴史のなかで、死体が一般紙に写真掲載された2番目の人物である。参考までに昭和49(1974)年10月25日付沖縄タイムス朝刊13面をアップしますので、ご参照ください。(終わり)

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