昭和天皇崩御三十年に思うこと

本日(1月7日)は昭和天皇崩御から30年です。ブログ主は毎年この日が訪れるたびに悔やまれるのが、復帰直後の天皇行幸が実現しなかったことで、当時の沖縄県民の抱える被差別意識を払しょくする最大のチャンスを逃してしまったことです。『屋良朝苗回顧録』を参照すると、天皇行幸のチャンスは二回あり、一つは昭和47年11月26日の植樹祭、もう一つが翌年5月に開催された若夏国体です。両イベントともに天皇・皇后両陛下のご臨席を慣例としていましたが、沖縄の特殊事情を鑑みて両陛下をお迎えすることなく開催されました。

この時の屋良知事の苦悩は察して余りありますが、天皇行幸が実現しなかったことでアメリカ世時代の価値観が無意識のまま復帰後も沖縄社会に継承されてしまったのです。この点について現時点のブログ主のレベルではうまく説明できませんが、もしも天皇行幸が実現したならば、いまの沖縄社会は違うものになっていただろうことは確信できます。

昭和天皇に関しては、ブログ主が確認した限りでは長谷川慶太郎氏の考察が最も優れていますので、当ブログにて掲載します。読者の皆さん是非ご参照ください。

昭和天皇は二十世紀最大の政治家。ご自身のお人柄で「天皇機関説」を超えられた。

長谷川 天皇崩御は、これ以上考えられないほど、すべてにもっとも波乱の少ない絶妙のタイミングでした。土曜の早朝でしたから、その日のうちに、新天皇の即位、改元などすべての政治手続きがつつがなく終わりました。翌日日曜日にいろいろ準備して、二日間の民間の喪が明ける月曜日には、なんの支障もなく新しいスタートが切れた。しかもなくなられたのが松の内最後の日、翌八日の日曜日はもう平成元年で、この日からあらためて新しい年が始まったような気持ちになれた。昭和六十四年はそれまでの七日間で終わり。正月休みだったから、社会生活はほとんど止まっていた。今年は実質的に平成一月八日から始まったと言っていい。なにからなにまで、具合の悪いことがまったくなかった。

長谷川 もう一つは、元号というものは日本にしかないものですが、元号には時代を端的に象徴されることができる。明治時代とか大正時代とか昭和時代とか、非連続的に時代を区切れる。西暦にはそれがありません。ずっと連続している。しかし元号には飛躍がある。たとえば、昭和時代の終わりに新しく現れたいろんな現象を、平成時代ということで、一挙にクローズアップする。時代を画するエポックメーキングな働きが、元号にはある。ひと言で時代を象徴できる。たとえば、「昭和時代が基本的に『戦争と革命の時代』だとすれば、平成時代は『平和と安定の時代』だ」。こういう言い方ができる。連続している時の流れを、非連続に区切ってシンボライズする。元号というのは、他にはない素晴らしい文化です。それだけ日本は他の国に比べて変化が激しいんだと言うことができるかもしれません。

– そこが日本的無責任の体系だと言う人もいる。

長谷川 個人的に責任を取ることと、国民のためにその気持ちを抑えることと、どちらが大事か。事実、天皇は二度も三度も「退位をしたい」と言われた。その度に周囲が押しとどめてきた。個人のお気持ちとしては、「退位したい、退位したい」と思われながら、その気持ちを押し殺して、結局、六十三年も天皇の地位を務められた。こんな辛いことはありません。責任を日常不断に感じ続けなくちゃならない。苦しかったでしょうね。私は同情します。本当に同情します。かわいそうですよ。

– 個人の気持ちより地位への義務を優先された。

長谷川 自分個人が責任を取ったという、満足感を優先させるか。それとも国のシンボルとしての役割を優先するか、どちらが重いか。その比較検討をしたら、天皇がされた選択しかありえなかった。

長谷川 それだけじゃありません。誰も言わないことですが、私が痛感するのは、天皇は二十世紀最大の政治家だったということです。政治家というのは、総理大臣とか、いわゆる政治を執行する人だけじゃありません。国家の象徴としての責任を全うするというのも、政治家でなければできないことです。その前提条件は、第一にたぐい稀な先見力です。二つ目は国民に対する責任感です。そして第三に、具体的に政務をとる職業的政治家を使いこなすことです。天皇は職業的政治家じゃありません。にもかかわらず、政治責任を負う宿命に立たされている。辛いことです。しかし天皇は、この難しい役目を、透徹した先見力と、何ごとも国民を第一にする私心のなさと、その上確固とした信念で務められ、国民の精神的な支柱になってこられた。だから日本は、あの廃墟から、今日、世界最大の金融大国にまでになることができた。その心棒が天皇だった。だから私は、天皇はいわゆる職業的政治家ではないが、「二十世紀最大の政治家の一人である」と評価して誤りないと断言するのです。

 – どの大臣も陛下へ内奏の時、緊張した。

長谷川 天皇が大変な勉強をしておられたからです。しかも先入観なしに真っすぐに聞いてこられる。ニクソン・ショックの時、「しかし円高は悪いことじゃないのだろう」と言われたそうです。あの時の私の判断と同じですよ。当時日本で支配的だった意見と、どちらが正しかったか、こんにちでは明白です。天皇は、細かい事象にとらわれない。パッと大局をつかまれる。だから内奏ということで、職業政治家がこういう方に会うのは大事なことです。天皇が大臣を訓練されている。「大臣なんか一時期のもんだ」なんて言っても、内奏は天皇と一対一で、どういう質問が出るかわからない。国会みたいに、質問の事前通告というのはないんです。一夜漬けでも勉強せざるをえない。天皇に対しては、ウソがつけない。研ぎすまされた鏡の前に立たされるのと同じです。自分の姿が裸にされる。まったく私心がないというのは、怖いことなんですよ。よくマルクス主義で、人民に対する服務なんて言いますが、国民に対する責任感という点では、天皇にはかなわない。はるかに高い地位に立っておられる。だからどこの国の政治家も、海千山千のすれっからしの連中が全部頭を下げた。天皇の前に立つとどうしようもない。私心がないというのは強いんです。全斗煥が来日した時に、その首席随員が私に言いました。「一番期待しているのは天皇です。ほかはどうでもいい。どうしても天皇陛下にお目にかかりたい。お目にかかれば、それだけで満足だ」。そう言うんです。そうして天皇に会って、全斗煥は雷に打たれたようになった。これもその随員が私に言いました。天皇が全身で責任を感じておられるのが、痛いようにわかった。マスコミが議論するような言葉の問題じゃない。人格の力というのは、大変なものなんです。日本国憲法では、国家の象徴という神聖な役目を、生きた人間が務める。天皇はその役目を誠心誠意務められた。考えられる限り最良の天皇だったということです。

(注)内奏 国務大臣が所管事項について随時、天皇に説明し、ご下問にお答えすること。現憲法下では、まったく非公式なものとなった。が、そのため事前の打合せもなく一対一で天皇に対面しなければならない大臣は、かえってひじょうな緊張を強いられるといわれる。

– 敗戦直後、天皇に会ったマッカーサー元帥の直観は正しかった。

長谷川 アメリカの対日政策は、その直感を前提にしたから成功した。しかもただの成功じゃない。どんな歴史にもない劇的な大成功をした。それが今日の日本の繁栄と、それからのアメリカ自身の成功を導いた。

長谷川 天皇の人柄ということを除いて、純粋に法的に見たら、天皇は国家の一機関に過ぎない。そして一機関だったら、戦争に負けたら、亡命か退位をするのが当然です。ただの機関なら誰が務めたっていい。そこにいればいいんです。天皇の戦争責任を言う人は、結局、みんな天皇機関説論者なんです。明治憲法での天皇は、戦争に敗れ明治憲法が崩壊した時点で、機関としての責任を負って、その地位を去るべきである。論理的にはその通りなんです。ところが実際の天皇は、機関を超えた存在になってしまわれた。マッカーサーに対して、「戦争の全責任は自分にある」と言われた瞬間、天皇の人格が機関説を乗り越えた。そして戦後憲法の象徴として、最良の天皇になられた。この天皇の人間としての力、人格の力を認めないところが、天皇機関説の最大の弱点です。

– 天皇が退位されなかったから、歴史の連続性が維持された。

長谷川 軍国主義者を排除して、その上で、日本が蓄えた最良の力を、戦後の復興に集中することができた。もし天皇退位ということになっていたら、歴史の相当の部分が非連続になって、深刻な危機に陥っていたでしょうね。

– 天皇の戦争責任を説く人は、あの機会に日本がそうならなかったのが残念なんでしょう。またとない革命の機会を失したわけです。

– 新天皇は?

長谷川 よく分りません。まずどういうお人柄であるか。もう一つは、平成時代の天皇は、昭和時代の天皇と違って当たり前と思いますが、平成時代の天皇にふさわしい方であるかどうか、まだ未知数です。

– 制度としては、象徴天皇制という天皇機関説のまま。一部に言われるような、今後も天皇の政治利用というような事態は考えられない。しかし先の天皇のような天皇になられるかどうかは……。

長谷川 分りません。一つには、まだお人柄が定かではありません。この四十年は、天皇のお人柄がごく自然に現れるような天皇制でしたが、今後はますますその方向へ行くでしょうし、また行くべきです。そうすると天皇の人柄がどうかがカギです。西欧の王室風な姿になることも十分に考えられる。それも天皇の人柄と国民の気持ちがどう結び付くかで決まります。すべて自然に、自然に、です。現天皇は、地位を相続されたばかりです。本人の希望、性格、能力とは関係なく、世襲の宿命として地位を継がれた。父天皇の人格から強い影響を受けられたでしょうが、それがすべてではない。他にどういう素質を受け継がれ、どういうご意思をお持ちか。当然のことですが、まだ未知数です。自然なお人柄におまかせするのが一番いいと思います。(長谷川慶太郎著『長谷川慶太郎の世界はこう変わる』31~38㌻より抜粋)

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