沖縄県民が忘れてはいけない人々 – 医生教習所の話

4月30日時点でグーグルニュースが公開している我が沖縄の新型コロナウィルス感染者は141名、そのうち死亡が4名となっております。この数字が多いか少ないかブログ主は専門家ではないため判断できませんが、歴史的に見ると未知の病の蔓延にしてはきわめて少ない印象があります。

今月15日付沖縄タイムス文化面(17)に『「琉球処分」と感染症』と題した論説が2日にわたって掲載され、その中で言及された明治12年(1879)年のコレラ禍が、太田朝敷著『沖縄県政五十年』とほぼ同じ内容でした。我が沖縄初のコレラの流行が当時の社会を悲惨な境遇に貶めたこと間違いありませんが、同時に民間の衛生観念の余りの違いにブログ主は改めて驚きを禁じえませんでした。

前から気になっていたのですが、太田先生は何故『沖縄県政五十年』に於いて”第五 – 縣の衛生施設と其功程”と題した一章で公衆衛生の歴史について言及したのか。その理由はズバリ”医生教習所(いせいきょうしゅうじょ)”の功績を讃えるためと判断して間違いありません。医生教習所の歴史に言及する前に、明治12年のコレラの流行についての同書は次のように述べています。

明治十二年といふ年は、廢藩置縣といふ空前の大革命があつた記念すべき年だが、衛生上の立場からいふも亦忘るべからざる年である。卽ち本縣が始めてコレラに見舞はれ、瞬たく間に蔓延して一萬千二百餘人の患者中、六千四百餘人の死亡者を出したのだから、その勢ひの猖獗なりしことは推して知るべしである。私の近い親類にもその犠牲になつたものがあつたが、その頃父は旣に縣廳に奉職してゐたので、傳染病豫防の槪念位は出來てゐたものと見へ、私などは葬式にも出さなかつた。併し一般縣民はこれを魔の所爲を迷信してゐたのであるから、村の入口にしめ繩を張るとか、金太鼓をたゝいて廻るといふ始末。私なども病氣の恐ろしさよりそれが面白さに騷ぎ廻つたのである。驚いたのは虎的(コレラ)よりも新らしい醫院の諸君と縣當局であつたらう。これでは豫防どころか、却つて傳染を煽るやうなものだ(148~149㌻より抜粋)

一読して明治初期における民間の衛生観念を伺うことができますが、ちなみに当時の沖縄県の人口は推定で31万人、前述の『「琉球処分」と感染症(上)」によると、1879年の県内コレラ患者数は1万1196人、死者が6310人とあり、単純計算で50人にひとりが亡くなる大惨事となりました。

この年から我が沖縄の近代的な医療・衛生行政および公衆衛生の啓蒙がスタートしますが、当時の民間医療の現状は『沖縄県政五十年』によると

藩政時代から置縣の初期にかけて、新醫術の心得ある醫師は、泊の仲地紀照(なかちきしょう)氏たつた一人であつたらしい。氏は今の元順病院の仲地紀晃(なかちきこう)氏の祖父で、餘程目先がきいてゐたものと見へ、明治二年藩主の命を受け鹿兒島に出張して西洋醫術を修行したこともあるので、置縣當初の病院でも、院長その他を補佐して、新醫術に對する縣民の啓發に努力したやうである。

漢法醫術は昔から可なり進んでゐたやうだが、醫者ユタといふ俚諺もある通り、病氣は醫者の診察とユタの祈禱と相待たなければ、癒るものではないといふやうな迷信が、置縣後も可なり長く保存されてゐた。十二年のコレラ流行の時、金太鼓をたゝいて騷いだのは、即ちユタの役目を受持つたのである(149~150㌻より抜粋)

とあり、ここで”医者ユタ”の有名な俚諺が登場します。民間において医術と呪術が分離していなかった事実を伺うことができますが、これは世界史的に珍しいことではありません。だがしかし、旧観念を打破し社会に近代医学および衛生観念の普及させることは困難極まる作業になります。その困難に打ち勝って我が沖縄に近代的な衛生観念を普及させ、そして現代のハイレベルな衛生環境を現出させたパイオニアが医生教習所の卒業生たちなのです。

『沖縄県政五十年』における医生教習所の記述は以下ご参照ください。

この迷蒙の思想を打破して、新醫術の發展と衛生思想の普及を圖るのは、中々容易でないと見たものか、明治十八年には本縣に洋醫を作るべく、二十人の講習生を募集して、醫院附屬の醫學講習所を設けた、二十二年に至り沖繩縣醫院を沖繩縣病院と改稱すると同時に、この講習所も醫生敎習所と改め、明治四十五年醫術開業試驗規則改正の結果として自然廢校となつたが、その存立期間二十八年間は、年々數名乃至十數名の卒業生を送り出し、これ等の卒業生の多數が醫術開業試驗にパスして立派な、醫師として社會に立つたものが前後百七十二名の多きに達してゐる。この敎習所出身の團體である醫師同窓會の調査に依れば、昭和四年に於ける同窓の狀况は、生存者百十六名、死亡者五十六名で、那覇、首里を始め縣下の各地に開業せる醫師の總數八十九名中、講習所出身者は實に六十一名の多數を占め、その他縣外及び海外まで發展せるものも少なくないといふ。

この醫生敎習所は、初期に於ては餘り世人の注意も引かなかつたが、卒業後の成績が百パーセントの好果をめることが知れ渡るに至り、學校としての權威も、決して師範中學に劣るものではなかつたのである。今日縣下の各方面に活動してゐる人々の中で、代議士となり、縣會議員となり、市町村會議員となつたものも少なくはない。元來醫生敎習所は縣の衛生施設の副物としての存在であつたが、この副物の効果の方が寧ろ大なるものがある。

私は縣の衛生施設五十年の過程に於て、その功績の餘りに少なきを遺憾とする一人であるが若し醫生敎習所という副產物がなかつたならば、更に一層の寂寞を感ぜざるを得なかつたであらう。敎習所の同窓の諸君は永久に母校を記念する爲め、敎習所二十八年の歴史と同窓の狀况を槪述して石に刻み、醫生敎習所記念之碑と題して、波上に一面の石碑を建ててある(150~151㌻より抜粋)。

ここでブログ主は「そういえば波の上宮の境内に医生教習所に碑があったな」と思い出し、早速ですがその碑文を調べてみました。その内容については次回言及します(続く)。

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