浦添朝満の謎 – その(2)

(続く)今回は、浦添朝満(1494~1540)の “失脚” について、ブログ主なりに言及しますが、実はこの案件で困ったことがあります。それは、彼が尚眞王の長男でありながら最終的に廃嫡の憂き目にあったため、後世の人たちから悲劇の主人公扱いされている点です。

具体的に説明すると、一世朝満に関しての伝承がどこまで本当なのか、それとも彼の悲劇は “背びれに尾びれがついた話” なのか、まったくと言っていいほど判断ができないのです。そのため、今回は向氏小禄家の家譜や、『女官御双紙』などの公開された史料に基づいて、彼の謎について迫ります。

向氏小禄家一世朝満の家譜には、彼の世子廃嫡の理由として、

〔尚眞王代〕正徳三年戊辰立つて世子となる。然れども事故ありて郊外浦添城に蟄居す。

と明記されており、意訳すると「(朝満は)1508年(尚眞王即位31年目、朝満14歳)に、世子となるも、事故あって郊外浦添城に蟄居する」となりましょうか。ちなみに1508年は王母おぎやか(御近)の死後3年目にあたりますので、彼女の陰謀で “事故” が起こったとは到底考えられません。

※おぎやか(御近)についても、朝満と同様、現在伝わっている彼女の伝承が誇張されすぎた傾向があるので、却って彼女の実相が分かりにい状態になっています。一世朝満の廃嫡物語には必ずといっていいほど、彼女が登場しますが、政治と祭祀が分離・共同の関係にあった当時のりうきう社会において、(祭祀に属する)おぎやか(御近)の “鶴の一声” で朝満を後継者レースから外すことなど不可能なんですが、この点については後日言及します。

なので、ここは単純に家譜の記述どおり、彼の身に王の務めを全うできないレベルの “人身事故” が起こったのではないか、あるいは尚灝王(1787~1834)のように、精神に異常をきたして浦添に蟄居したのではと考えたほうが自然かと思われます。

ちなみに、ブログ主が朝満の「人身事故あるいは病気リタイア説」を思いついたのは理由があります。すでに宮城栄昌先生が検証していますが、ブログ主が『女官御双紙』を参照に、三十三君(高級女神官)の身元を調べたところ、8割程度は結婚しており、しかもほとんどが王族の室(=嫁)になっています。

つまり、王族同士の結婚そのものは珍しくありませんが、当時はもしかすると

彼女らが持つ “筋高さ(=霊力)” によって、自身の健康と子孫繁栄を図る

との慣習が王家や王族側にあったのではと推測されるのです。

この仮説は荒唐無稽な妄言ではなく、実例があるのです。ひとつは、後世にその病弱ぶりが琉球芝居の題材(チーグー王)にもなった尚元王(1528~1572)で、彼の正妃は最高の女神官である「まわしの聞得大君」です。そしてもう一つは向氏湧川家一世朝理(ちょうり)の嫡男朝孟(ちょうもう)で、彼は家譜に「幼稚」と明記されるレベルの健康障害を抱えていましたが、「佐司笠按司」と称する最高レベルの女性を妻に娶っています。

この2例だけでは断言はできませんが、医術と呪術が分離していない古代社会において、最高の女性(最高級女神官)を宛がうことで夫の健康回復を願う心理は十分に考えられます。先にブログ主は「峯間(みねま)は浦添朝満の長女ではなく、初代聞得大君の実娘であり、朝満の夫人である」との仮説を提示しましたが、彼女は “最高の女性” として朝満の健康回復を図るべく、首里から朝満の元に派遣されたのではと思われるのです。

※この仮説が真実ならば、峯間の死後、遺骨が朝満と同じ厨子甕に納められたのも納得できます。そして、尚清王が先王の礼を持って、朝満の遺骨を玉陵に遷した理由も説明できます。

最後に、浦添朝満は王の後継者から外されたことが、却って彼にとってよかったのではと思われる節があります。事実、彼は1508年に浦添に蟄居したとはいえ、泊の豪族(花城宗儀)が後見人として健在なので生活に困るわけでもなく、何よりも一世として世継(朝喬)を残し、47歳の生涯を全うしたのです。

参考までに、朝満を祖とする小禄御殿はりうきう屈指の名門としてしられ、一世朝満の直系は9代まで続きます。つまり朝満は、「事故」が原因で王位に即くことは叶いませんでしたが、王族初代としての役目は十分に果たしています。そのため、彼を “悲劇の人物” として取り扱うのはどうなんだろうと疑問に思うブログ主であります(終わり)。

 

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