琉球・沖縄の歴史における社会階層の変遷を図解してみた

先日Hatena Blog(はてなブログ)にて”それ、僕が図解します。“というタイトルの面白いブログを発見しました。2018年5月23日付けの記事『日本大学アメリカンフットボール部はいつどのタイミングで誤ればよかったのか?』の図解まとめが実に秀逸で、それに触発されて今回ブログ主が調子に乗って琉球・沖縄の歴史における社会階層の変遷を図解してみました。現時点での仮説ではありますが、読者の皆さん是非ご参照ください。


・第二尚氏時代から琉球藩の時代まで(18世紀ごろ~明治12年まで)

点線で囲まれている部分は「交流範囲」と考えてください。琉球国の位階制度は18世紀に完成しますので、そのあたりを基点に廃藩置県の明治12年(1879年)までの社会階層を図解すると、当時は王と王族が国を支配している構造であることがわかります。特徴的なのは階層間を超えての交流がほとんど無かったことです。それゆえに社会全体に共有できる価値観が誕生する可能性が限りなくゼロに近くなります。そして”~の前の平等”の観念はついに誕生することがありませんでした。

・大日本帝国時代(明治23年~大正10年)

明治12年(1879年)の廃藩置県後に沖縄県が設置されます。そして明治23年(1890年)に大日本帝国憲法が施行され、沖縄県人は”臣民”の扱いになります。形式的な平等の観念がこの時初めて沖縄にもたらされたのですが、ただし政治制度が他府県と同一ではないため”特別待遇”として天皇共同体への参入となります。

・大日本帝国時代(大正10年~昭和20年)

大正10年(1920年)に沖縄県は普通町村制に移行し、他府県と同一の政治制度が施行されます。それによって特別待遇ではなく”日本臣民”として沖縄県人は大日本帝国の一員として認識されるようになります。これが琉球・沖縄の歴史上はじまって初の形式平等性の導入例になります。

・アメリカ世の時代(昭和28年12月25日~昭和47年5月15日)

昭和23年12月25日の奄美大島の本土復帰後の社会階層です。施政権者として米国民政府(USCAR)が君臨し、その下に琉球人が配置される構造です。非琉球人というのは、昭和23年12月25日以降、沖縄に本籍を移さない在琉奄美大島出身者のことで、当時の社会の最下層に配置されることになります。非琉球人については後日ブログにて取上げる予定ですが、この一件からもかつての沖縄社会には地域の風土や慣習に根ざした平等の観念がなかったことが伺えます。

・本土復帰後(昭和47年5月15日~現在)

上図が現代の社会構造です。大日本帝国との違いは今上天皇との交流の機会の有無です。それ以外は大正10年以降昭和20年までの社会構造と同じで、天皇陛下の前の平等の建前の元、我が沖縄県民は日本人として現代を生きていることがわかります。

ブログ主は「沖縄は何時から日本人になったか」との問いには、「明治23年(1890年)から」と考えています。その理由は(形式的とはいえ)大日本帝国が琉球の民を平等に扱った基点が明治23年の憲法施行時だからです。そしてアメリカ世の時代になぜ当時の人たちが復帰を熱望したかについては、日本人が歴史上はじめて(沖縄県人を)平等に扱ってくれたことを理解していたからだと仮定します。このテーマは現時点のブログ主のレベルでは荷が重過ぎるため、今後の宿題として今回は記事を終えます(終わり)。

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