琉球神話に関するちょっとした考察

今回は”琉球開闢”について言及します。というのも当ブログ開始から2年強、おかげさまで配信記事も550を超えましたが、そのなかで琉球神話を取り上げたトピックがひとつもないことに気が付きました。苟も歴史ブログを運営している以上、琉球神話に触れないとさすがにまずいかなと思い、今回ちょっとした考察記事を纏めてみました。まずは羽地朝秀編纂『中山世鑑』から琉球開闢に関する記述を紹介します。ただし原文は読みづらい部分があるので、比嘉朝潮著『沖縄の歴史』からの現代語訳を掲載しました。読者のみなさん、是非ご参照ください。

沖縄の歴史の書として最も古い「中山世鑑」にはこう書かれている。「昔、天城(テングスク)にアマミクという神がおられた。天帝がアマミクを呼んでおっしゃるには、この下に神の住むべき霊処がある。しかし、未だ島になっていないのが残念である。その方降りて行って島をつくれよと命ぜられた。アマミク仰せを受けて降りて行ってみるとなるほど霊地ではあるが東海の波は西海にうち越し、西海の波は東海にうち越して、まだ島にはなっていなかった。そこでアマミクは天の上り土石草木をくださらば島をつくりましょうと申し上げた。天帝はなるほどと土石草木をくださったので、アマミクはこれを持ち下り島をつくった。まず第一に国頭の辺戸の安須森、次に今帰仁のカナヒヤブ、次に知念森、サイハ嶽、ヤブサツの浦原、次に玉城のアマツヅ、次に久高コバウ森、次に首里森真玉森次に島々国々の獄々森々をつくった。それから数万年を経たが人も生ぜず、これでは神の威光もあらわしようがないと、アマミクは又天に上り人間の種を乞うた。天帝が仰せられるには、その方知っているとおり天に神々は多いが、つかわすべき神はいない、といって捨ててもおけないからと、天帝の御子の男女をくだされた。二人の間に陰陽の和合はなかったが、吹き通う風によって女神ははらみ、三人の男と二人の女を生んだ。長男は国王天孫氏、次男は諸侯即ち按司の始、三男は百姓の始、長女は君々の始、二女は祝々(のろのろ)の始」とある。即ち沖縄の島々は数万年前にアマミクによってつくられ、天帝の子が下りて来て沖縄人の祖先になったというのである。暗示に富んだ伝説ではあるが、記録者のある意図が加わっていてそのまま歴史的事実として受け取ることはできない。

引用:比嘉春潮著『沖縄の歴史』7㌻より抜粋

最後に春潮先生のちょっとしたツッコミがありますが、大雑把にまとめると、①琉球の地は神によって創設された、②琉球人は神の末裔である、③神の子たちが社会秩序を作った、になります。実は琉球開闢説に関して『中山世鑑』『球陽』および『琉球神道記』では内容が若干異なります。その詳細については真境名安興著『沖縄一千年史』や東恩納寛惇著『琉球の歴史』に掲載されていて、今回くわしく説明しませんが、①から③に関しては共通していると見做して間違いありません。

日本神話との相違点

真境名安興著『沖縄一千年史』の第二章「開闢説」を参照すると、琉球神話と日本神話との著しい類似性について詳しく言及していますが、今回はあえて相違点について説明します。日本神話と琉球神話を見ると国土創設と神降臨までは同じ流れですが、日本の場合は降臨した神の子孫が現代もなお国を統治しているのに対して、琉球の場合は天孫子の末裔は逆臣”利勇(りゆう)”によって殺されてしまいます。

詳しく説明すると、日本の場合は天照大神→天津彦彦火瓊瓊杵尊(天照大神の孫:御降臨)→彦火火出見尊鸕鷀草葺不合尊神日本磐余彦尊(神武天皇)と続き、その御子孫が現代も国家を統治しています。つまり神話の時代から血統が継続しているのが日本神話および歴史の一大特徴であり、この件は強調してもし過ぎることはありません。それに対して琉球の場合は天孫氏の末裔が逆臣利勇によって血統が絶たれます。そうなると『中山世鑑』など琉球の史書は如何なる意図を以て開闢説を記載したのか、極めて疑問に思わざるを得ません。

神話の時代から何が継承されてきたのか

日本と琉球の歴史の相違点は、神話の時代からの血統の継続の有無であると説明してきました。そうすると琉球の場合は”何が神話の時代から継承されてきたのか”が焦点になります。何かが継承されてきたからこそわざわざ史書に開闢説を記述したのです。

結論を先に述べると琉球の為政者および史書の編者は、神話の時代に創設された”社会秩序”が継承されたと考えていたのです。『中山世鑑』を例にとると、天帝の子である男女が霊地である琉球の地に降臨したあと三男二女を生みます。生れた子供たちはそれぞれ社会的な役割を担うことになりますが、この時誕生した社会階層が史書が編纂された17~18世紀まで継承されたことを編者は訴えたかったのです。

そうなると琉球の社会においては国王・按司・百姓・君々・祝々の階層は開闢以来の伝統であり、最優先で維持しなければならないという発想に行き着きます。実はその流れで考えると理解できる史実があります。明治8年(1875年)に来琉した松田道之に対し、琉球藩側では明治政府からの御達書のなかの「藩政改革」の条項に強烈な拒否反応を示しました。この案件は単に当時の為政者たちの自己保身の結果として捉えるのではなく、琉球開闢以来の社会構造の改革なんて言語道断という観念があったと考えることができます。そしてこの観念が結果として琉球社会を不幸に導いてしまったのです。

日本と琉球における政治・社会制度に対する発想の相違が見えてくる

日本の歴史における一大テーマは神話の時代からの血統の継続です。そうなると社会における最優先事項は「皇室制度の維持」になり、政治や社会制度に対してはある程度柔軟に対応することが可能です。そしてこの発想が明治の時代における近代化の成功、および大東亜戦争の敗北から立ち直る最大の要因になります。

それに対して琉球の場合は、神話の時代に誕生した社会階層の維持が最優先であり、やむを得ない理由があれば社会階層を担う人材は交代しても構わないという考えになります。実際に舜天→英祖→察度→巴志の系統(第一尚氏)→内間金丸の系統(第二尚氏)と王の系統が変わっています。人材は変われども、社会階層は変わらないというのが琉球の歴史における大前提であり、本当にそうだったかというツッコミはおいといて、明治12年(1879年)の廃藩置県までの為政者たちはそのように考えていたことは疑いの余地がありません。

そうなると琉球社会は国際社会の環境変化に対して極めて対応しにくい体質だったと言えるかもしれません。琉球王国末期および琉球藩の時代は社会の制度腐朽極まりない状態であったことと、加之(これにくわえて)国際社会の激変に即応できない社会体質が結果として王国を滅亡に導いたと考えることもできます。琉球開闢説を検証することで、意外な結論に行き着いたことに驚きを覚えつつ、今回の記事を終えます。

【参照リンク】琉球開闢に関する史料

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