戦前の沖縄社会になぜ反社会的勢力が存在しなかったの考察 – 結社の概念なき社会その1

(続き)琉球・沖縄の歴史を俯瞰すると、意外に思われるかもしれませんが、廃藩置県以前のりうきう社会には “結社の概念” を(もちろんゼロではありませんが)見つけることが非常に難しいです。その前に結社について定義すると “目的を達成するために結成された機能集団” のことであり、成立のために条件として

・成立目的

・構成員

・組織の運用ルール

の三要素があります。

実は古琉球から明治12年(1879)の廃藩置県までに、民間において上記の条件に当てはまるような結社の存在を確認することはできません。ただし例外として政治機構である “琉球王府” は上記三要素を兼ね備えた結社と見做すことができます。参考までに尚寧王(在位1589~1620)以降の王府の場合は、

・目的 王家の存続(そのために日支両属体制の堅持)

・構成員 王家、王族、その他上級士族等

・運用ルール 行政機構の成立、それを運用するためのルール。

になりましょうか。日支(にっし)両属体制の堅持は分かりやすく言えば、毎年薩摩へ貢租を納入する義務の全うと、明国あるいは清国との冊封体制の維持になります。

琉球王府を例にとりましたが、ほかにも冊封体制を維持する役目を司った “久米村” も結社に相当します。そして「おもろそうし」などの史料から聞得大君を中心した神女の集団も結社と認めることができます。ただしハッキリと確認できるのはこの3例だけで、廃藩置県以前には民間に結社に相当する組織は見当たらないのです。

意外かもしれませんが、貧困極まりないイメージがある琉球王国時代にも民間に “ウェーキ” と呼ばれる裕福層が存在していました。疫病や飢饉などで地域社会に深刻な事態が発生した場合、彼ら裕福層が資産を投じて住民を救済する話がありますが、実は彼らには横のつながりが全くなかったのです。具体的には各間切(現在の市町村に該当する行政上の区分)を超えて連携し、一つの階層を形成する動きは遂に起こらなかったのです。

ほかにも廃藩置県後の沖縄県人たちに結社のセンスがなかった例があります。琉球・沖縄の歴史における初の新聞社は “琉球新報” であることはよく知られていますが(実はそれだけではなく琉球新報は民間における初の結社です)、設立当初の社内の様子が極めて興味深いので紹介します。大正6年(1918)9月24日付琉球新報一面に掲載された「回顧二十五年」によると、

本紙の誕生は 明治二十六年(一八九三)の九月十五日で、誕生の地は、今の西本町三丁目十七番地(田中医院)で、すなわち城間と云う家の一部を借り受けて経営したが、十畳の二間が工場で、物置に使われている、二間半ぐらいある別棟の建物に畳を敷いて編集局に宛て、外に職工の休憩所が一間、物置が一間(二階)あった。これが本紙の諸機関を包む外皮であるが、この外皮から推考するも、其内容が如何に貧弱であったかが察せられるだろう(中略)

編集局員は どんな顔触れかと云うに、今日の如く、株主とか社長とか事務員とか、云う様な差別もなく、素より名称もなく、尚(順)男爵を始め護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和、野間伍造、宮井悦之輔、大田朝敷、の面々総掛り紙片やら、新聞雑誌などを蒔散してある一間に、粗末の円卓を囲んで、日中の七八分は議論と雑談でつぶすと云う始末、其癖今日の様に、昼頃から寝たさうな顔して出て来るのではない。ちゃんと朝の九時十時頃から出ている。

年は尚男爵が二十一歳で一番若く、他の面々も皆二十台で、元気ばかりでも先づ全県を呑む勢いたであった。宮井君は温厚篤実の君子風の人であったが、野間君と来たら箸にも棒にもかからないと云う腕白。何時も編集局の窓に起って三尺しかない庭?……に小便を垂れていた一時に徴しても、その無頓着さ加減が察せられるだろう。(下略)

といった塩梅で、初期の琉球新報社は一種のサークルもどきの状態からスタートしたことが分かります。参考までに、琉球新報初期のメンバーである、尚順、護得久朝惟、高嶺朝教、豊見城盛和、大田朝敷は当時の社会における上流階級(首里閥)であり、しかも高嶺朝教、大田朝敷は第一回県費留学生として本土で学業を修めている新時代の知識人なのです。それがこの有様で、この一例からも廃藩置県以前のりうきう社会には結社の概念が皆無であったことが伺えます。(続く)

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