血ぬられたゼネスト – 本物の暴力の恐ろしさ(2)

(続き)今回の記事をアップする前に、11.10ゼネスト関連の史料を2つ紹介しましたが、これら史料を閲覧することで読者のみなさんは警官殺害の衝撃のすさまじさを実感していただけたはずです。参考までに、当日に事件を目撃した記者談と、『昭和46年12月25日発行、「海邦」11・12月合併号』のなかで言及がありました山城幸松沖縄青年委員会代表(当時)の記者会見の記事も追加で紹介します。

今回の事件の史料をチェックして痛感したのですが、事件を理解するためには “新左翼” の知識が必要になります。ただしブログ主は当時の左翼業界の知識がほとんどないので、史料を読みこなすことに非常な苦労を憶えました。まずは昭和46(1971)年11月12日付琉球新報8面の「本社記者座談会」から、事件を目撃した記者の証言をアップします。

火炎びんは途中からの部隊

B 1号線路上は自動車交通が片側は警察によってしゃ断されていたが、先頭の沖縄教職員組合は道いっぱいのフランスデモ。全軍労のデモは500~600㍍離れたあとからつづいた。その先頭にさっき現れたグループが、あたかも全体をリードするような形になって進んだ。このグループは多くが白、一部が赤のヘルメットで「中核」「反戦」「沖〔青〕委」と書かれたり、カマとツチのマークをつけたりしていた。また、沖縄大学の反戦を示す旗もあった。中核派、インター、県反戦、沖縄青年委員会などの混合部隊だったようだ。全軍労の牧港青年部約200人とよりそうになった。この「牧青」は「全島ゼネストの暴動的爆発へ」と書いたと防石板に棒をうちつけたのをもち「機動隊をせん滅するぞ」とさけんでいた。この中には「中核」と書いたヘルメットあ赤ヘルメットをかぶっているものもいた。この2つの部隊は関係がありそうにみえた。だが、火炎びんを投げたのはもっぱらこの途中から現れた部隊だ。

無気味でまるで3K団

C この部隊はふつうのタオルの覆面とちがって目、鼻、口だけをのぞかせた無気味なかっこうだった。まるで3K団(米国の秘密結社)かプロレスの覆面レスラーみたいだ。「顔を見られてはまずいかなり激しい行動に出るつもりなのだな」と予想された。また背中にはヒモでつるした棒を背負っていた。なにしろ半分かけ足で敏速にうごくので、追いかけるのがやっとのくらいだった。これも奇襲戦法のひとつだったかもしれない。

F 運び屋というか、輸送班がいた。●縄をかけきちんと包装された段ボール箱の中にビールの中びん、小びんでつくった火炎びんが20本くらいはいっている。これを2人がかりでかついだり、両手でささえてうしろから運んでいた。

ー 勢理客での殺害現場を見たのがいますね。

すさまじい勢理客交番襲撃

E 勢理客交番襲撃はすさまじかった。学生部隊は「まだ、まだ」と声をかけ、かなり接近してからなげた。これはあとから考えると偶然ではなく機動隊の退路を断つためのものだったのではないか。逃げ場を失い、前面には棒をもった白覆面がいる、さらに1号線仲西方面に逃げようとしてもそっちはすでに前進した白覆面部隊が火炎びんを前方の大型放水車が機動隊に投げている有様で、1号線路上を右往左往して逃げるうちに「わあっ」「うまくいったぞ」「やっちゃえ」と叫ぶ覆面部隊から火炎びんがとび足、腰に火がついた。これを消すためか、足がすべったのかわからないが転倒、2~3回ゴロゴロところげた。そこへまた火炎びんが投げられこんどは警官の上半身が火に包まれた。そこへ棒でめったうちにした。頭はヘルメットをかぶったままなので露出した顔面や首をたたかれた。いろんな人間がかわるがわるけったりたたいたりし、口からガポリ、ガポリと心臓の鼓動とともに血がわき水のように吹きだし、顔は火ぶくれて眼をむき両手がけいれんしたかと思うと上へつき出し動かなくなった。これではとうてい助からない。即死ではないかと思った。からだの火は消えず、あまりのせい惨さに正視できないほどだった。さすがに、ひどすぎると思ったのか白覆面の男の2人がかけより奪いとったジュラルミン楯をかぶせて消そうとしたが消えない。そこでこんどは「沖縄大学反戦」と書かれた赤旗をかぶせてもみ消した。哀とうのつもりか、あるいは正視でいないためにかぶせたのか、現場をそのままにしてパッと散っていった。ほんの2分間くらいのできごとだが、長い悪夢をみているようで身動きできなかった。

B 死んだ山川巡査部長は与那原署の交通主任。この日の最大動員にかり出され、機動隊といっても「正規軍」ではなく臨時構成の予備軍だ。「攻撃されたら、まず逃げようや」と話していたそうだ。もう年配で重装備のため逃げおくれたと思う、「機動隊せん滅」というが、実際は交通のおまわりさんをよってたかって殺してしまったわけだ。(下略)

引用元:昭和46(1971)年11月12日付琉球新報8面

記者が見た警官殺害の状況は、『海邦』の記述と若干違いがありますが、デモ参加の過激派たちの確信犯であることは明らかです。ハッキリ言って昭和50(1975)年2月の楚洲事件(旭琉会組員が上原組組員を惨殺・死体遺棄した事件)に匹敵、あるいはそれ以上の残虐な所業です。

そして、この事件に関する山城幸松沖青委代表のコメントは以下ご参照ください。

機動隊の死は当然

県反戦・沖青委 / こんごもエスカレート

11.10ゼネスト闘争で県反戦の佐久本清事務局長と沖青委の山城幸松代表は11日午前、那覇市内の「ゆうな荘」で記者会見「11.10ゼネストでの機動隊の死は当然の結果である。また、14日には沖青委の総力をあげて東京での戦いを組み、機動隊せん滅闘争を展開する」と語った。

また佐久本事務局長は ⑴ ゼネストは質、量の面で画期的だった ⑵ この戦いは終わりでなく、始まりであり、これからもエスカレートしていく ⑶ 機動隊の死は県民の意思を妨害するものの結果であり、当然のむくいだ。ただ死そのものを現象面でとらえてはならない。暴力には暴力で敵対していく ⑷ 復帰協は一部の過激派がやったというが、決してそうではない。周囲には県民もいたし、それらが闘争に加わってるということを認識すべきだ。復帰協に代わる指導部が出てきたということだ。また、山城代表は「昨夜の戦いは当然だ。この戦いをさらにエスカレートさせ、14日には東京の火の海化闘争を組む。総力をあげて機動隊せん滅の戦いを切り開いていく。沖縄が差別から解放されるためには、日米帝国主義の先陣にある機動隊を爆砕する。昨夜の闘争は、沖縄県民の意思が噴出した結果だと思う。これで東京での戦いに具体的な展開が切り開かれた」と語った。(昭和46年11月11日付琉球新報夕刊03面)

この記事を掲載したのは琉球新報社の大ヒットであり、山城代表の記者会見の記事の下に“過激学生に怒り” と題した(山川警部が在籍していた)与那原署に関する記事を掲載したあたりに、記者たちの本音を伺うことができます。

これら記事を参照すれば理解できるはずですが、なぜ既存マスコミが11.10ゼネスト時の警官殺害事件に対して長い期間だんまりを決め込んでいるのか、それは

本物の暴力が怖いから

の一言につきます。次回、その点について詳しく説明します(続く)。

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