身分制度と和装

ここ数日、ブログ主はこれまで蒐集した史料をチェックしたところ、ふとしたことから琉球女性が和装した “本当の理由” について気が付きましたので、当ブログにて纏めてみました。

当ブログの読者であればご存じかもしれませんが、我が沖縄の歴史のおいて初めて和装した人物は “偉大なる” 安村つる子女史(1881~1943)です。外間米子監修『時代を彩った女たち』によると、彼女が明治32年(1899)に和装した理由を「当時「源平時代の古代服」といわれた琉装を、日琉同祖論の立場から和装に改めるべく(下略)」と記述してますが、実はこの説明は正確さを欠いているのです。

※ブログ主が “偉大なる” の枕詞を付ける歴史的人物はたった2人、一人は伊波普猷先生、そしてもう一人が安村つる子女史です。

先ず、当事者である安村女史の証言から、和装した理由について以下ご参照ください。

女子講習科二ヶ年を卒業したのが十八の春でした、これから愈々敎壇に立つかと思ふと一種何とも云へない感慨にうたれましてね、琉裝の儘ですからね。ずつと講習科二ヶ年を琉裝で通して卒業して敎壇に立つても矢張り琉裝でした、琉裝姿で敎壇に!と云ふと今ぢやどんなに見ようとあせつたところでね、見へるものぢやないですからね、オホホ………敎壇に立つてみるとサア大變です、生徒を敎へながらつくづく琉裝の不便を感じ出しました。不便を感じたばかりでなく琉裝の非時代的なることを自覺して十九の新學期始めに思ひ切つて和裝に變へました。振袖姿にすると、親類近所の人々から猛烈な非難罵詈酷評など亂れ飛ぶ有樣です。

引用:昭和7年4月9日付琉球新報特集記事「あの頃を語る 安村つる子女史の思出話」より

最初、この史料に目を通したブログ主は「生徒を敎へながらつくづく琉裝の不便を感じ出しました。」の真意が測り兼ねましたが、後に明治時代に刊行された「琉球教育」の論説をチェックした際に理解できるようになりました。試しに「女教員の服装を改革して普通服と為すを望む(会員 羊酋髪史)」と題した論説の中に、極めて興味深い一説がありましたので紹介します。

且つ夫れ女子の服裝たる、士族平民の階級甚だし、而して女敎員に至りても、亦此弊習を墨守し、士族の優美に比して、平民の朴陋なること、婉然として主從の如し、女敎員の職に在りて、此弊習を墨守すべき必要ありや否や。誠に平民出身の女敎員をして、首里那覇小學校に奉職せしめむか、士族出身の生徒は、良家の女を以て自ら居り、女敎員の言を聞くこと、自ら老婢の言を聞くが如くならむ。其服裝の平民なるが爲に、服裝の士族なる生徒は、敎師を視ること猶ほ老婢の如く、生徒或は其敎を信ぜざるの憂なしとせず。是時に當りて敎師の威嚴立たず、學校の神聖地に墜つ。

この一節だけでも理解できると思われますが、補足すると廃藩置県直後の沖繩縣は身分制度がまだ色濃く残っている状態でした。具体的には「服装」や「言葉使い」で出身地や身分(士族や平民など)が瞬時に判別できる社会だったのです。

これが本当の(身分)差別社会

なんですが、つまり小学校へ奉職した直後の安村女史は “旧慣習の分厚い壁” に散々苦しめられて、職務を遂行することに極めて困難を覚えていた訳なんです。そこで思い切って和装したら、今度は親類縁者や近隣の者から罵詈雑言の嵐というひどい扱いをうけます。

安村女史のエピソードで興味深いのは、女子講習科時代(1896~98)は琉装で通しても全く問題なく、卒業後に小学校に教員として奉職した後に琉装から和装に改めざるを得ない状況になった点です。それはつまり、学生時代の生徒や教員たちは、安村女史(当時は久場ツル)を差別することなく一人の女生徒として取り扱っていたのに対し、小学校に通う生徒たちは、彼女の姿格好を見て、露骨に「差別」した事実が見えてきます。

改めて気が付かされたのですが、安村女史の凄いところは、予期せぬ苦難に遭遇したにも関わらず、女子講習科時代の取り決めを守り通した点です。それは「講習科の卒業生は最低6年は小学校で教員を務めないといけない」との取り決めであり、事実彼女は30年の長きにわたり女子教員職を全うしたのです。

もしも彼女が “旧慣習の壁” に屈して職務を投げ捨てていたら、我が沖縄の近代化、特に女子教育は大幅に遅れていたこと間違いありません。つまり、彼女の成功によって沖縄女性は旧慣習から解放されるキッカケを掴んだのです。そして、その後の沖縄女性は一人の例外もなく安村女史が引いたレールを歩んでおり、今日の沖縄社会を築き上げた事実は強調してもし過ぎることはありません。

余談ですが、外間米子先生はおそらくブログ主と同じ史料に目を通しているはずです。それでいて安村女史が和装した理由の解釈について大きな違いが生じています。それはつまり現代の沖縄社会から身分差別が消滅した傍証とみて間違いなく(外間先生は明治時代に残存する “身分社会の壁” に気が付かなかった可能性大)、それ故に現代に生きる沖縄県民は、明治の先駆者たちの偉業にもう少し感謝の意を表すべきではと思いつつ今回の記事を終えます。

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【追記】現代の沖縄社会では、言葉使いや服装で「身分」を判断することができません。それはつまり安村女史をはじめ、明治時代の先駆者たちの努力の賜物で県内から身分差別が一層された証なんですが、その副作用として過去を知らないが故の「ファッション差別」を訴える輩が多々見受けられます。それだけではなく、服装等で判断できないことをいいことに、

王族を自称する輩

すら登場する始末です。この手の輩はりうきうの偉大なる先駆者たちの業績に「ただ乗り」してる “痛い存在” だと断言しておきます。

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