金城正雄氏が語る「首領」たち / 沖縄ヤクザの生き字引が「英雄」を語る – 田場盛孝、喜屋武盛一、多和田真山

(続き)那覇派幹部の田場盛孝が、組員約70人を率いて那覇派を離れ、宜野湾市普天間に普天間派を結成したのは、昭和39年4月のことだった。

田場は元は米軍のトラックの運転手をしていて、「戦果アギャー」のリーダーだった。だから、立場としてはコザ派に近かったのだが、彼は喜舎場朝信とも新城喜史とも折り合いがわるかったので、コザ派には加わらなかった。

一時は「戦果」の稼ぎを資本に遊技場などを経営する事業家に転身していたが、コザ派と那覇派の抗争が始まると那覇派に加わり、幹部の座に就いた。しかしそれも長くは続かず、短期間のうちに那覇派とも袂を分かって普天間派を結成し、のちに「いくさ世」の火種の一つをつくったのである。

田場盛孝(普天間派首領) 人の風下には立てぬ、飢えた一匹狼

金城「盛孝は経済観念が抜群で、正式に道場で習ったわけではないけれど空手の腕は立ちました。人の下にはつけない性格で、喜史さんが『盛孝』と呼び捨てにすると、『喜史、俺の方が年上なんだから、呼び捨てにするなよ』と文句をつけてました。スターさんは最初から先輩として立てて『盛孝さん』と呼んでましたが、盛孝の方は『スター』と呼び捨てでした。スターはなんでも俺の言うことを聞くという態度で、スターさんが何を言っても聞く耳を持たなかった。それでもやっぱり那覇派の中にいてはスターさんが目の上のタンコブなので、出ていったんです。利害関係もありましたが、何よりも自分の城を持ちたかったんです」

コザ派・那覇派と泡瀬派の抗争が起きると、田場の普天間派はコザ派・那覇派の側についたが、昭和41年、崩壊した泡瀬派の縄張りをめぐる対立から山原派・那覇派に宣戦布告し、両派を敵にまわして抗争を始めた。

その抗争は、勢力のちがいもあって普天間派が一方的に叩かれる展開となった。降伏勧告も出されたというが、田場は耳を貸さず、昭和42年、ついに射殺されて普天間派は壊滅した。

田場盛孝は、いわば一国一城の主としてのプライドに殉じた男だと言えるだろう。

喜屋武盛一(泡瀬派首領) 自信家で強者としてのプライドが仇

金城「盛一は喜史さんにくっついてましたが、理性が働いて、面倒見がいいとは言えない性格でしたから、喜史さんとは全然あわなかったんです。むしろスターさんとの方がいい付き合いでした。

盛一は強かったんですよ。コザ10人シンカの中では一番強くて、『スターと1対1でやりあえるのは盛一しかいない』と言われてました。そういうプライドもあったんでしょうが、我も強かったですから、ターリーが喜史さんを跡継ぎにしたのがおもしろくなかったんだろうと思います。二度も親分のターリーを襲ったところが盛一らしいところですが、それが彼のまちがでもありました」

喜屋武盛一はコザ東方の泡瀬の出身で、コザ10人組の1人だったが、昭和39年、田場盛孝の普天間派結成のあとを追うようにしてコザ派と袂を分かち、「泡瀬派」を結成した。

このとき、喜屋武についていったのは、コザ市(現沖縄市)泡瀬地区の出身者を中心とするおよそ150人。残ったコザ派主流派はおよそ200人の勢力だったから、これは分派というよりコザ派が2つに割れて、抗争を始めたのだと見た方が自然だろう。

とすれば、この分派抗争にはターリーの跡目争いの側面があったと言えそうである。コザ派の中にも新城が跡を継ぐことを不満とする反主流派があって、それを率いたのが喜屋武盛一だったということになる。

彼もまた、一国一城の主になりたかった男なのである。

抗争が始まると、喜屋武は二度、喜舎場朝信を襲撃している。喜舎場さえやってしまえば新城はどうにもなると読んでいたのである。しかし、二度とも失敗に終わり、他の三派から総攻撃を受けて壊滅へと追い込まれた。

ただ、かれは田場とちがって又吉の説得を受け入れ、ターリーに詫びを入れてカタギになる道を選んだ。

多和田真山(二代目旭琉会会長) 急ぎすぎた組織改革が裏目に

金城「真山は私のあとのスターさんの泊まり用心棒をやった縁で、私の兄弟分でした。

スターさんが殺されたときに、次の理事長候補として一番有力だったのが岸本建和(=宮城憲和)でした。警察もそれをキャッチしていて、岸本を警護してましたところがその岸本は身体が思わしくなかったし、理事長になれば上原一家の次の標的になると思ってましたから、みんな尻込みしてしまって継ごうとしなかった。それで真山にお鉢が回ってきて、糸村〔直亀〕や糸数宝昌に、『おまえしかおらんぞ。みんなのために継いでくれ』と言われて、理事長になったんです。

初代の仲本善忠さんが逮捕されて、真山が旭琉会の二代目を継いだんですが、真山はターリーにもかわいがられていたし、初代もパクられる前の日に真山に『次はおまえだ』と言ったんです。初代と真山と私とあと何人かで本土へ出かけていた途中でした。もちろん次の日にパクられるとは知らなかったんですが、虫が知らせたんだろうと思います」

多和田真山はかつて、自分の兄貴分の〔仲里〕昌和が〔安冨登〕という兄弟分にいじめられるのを見兼ねて、安冨を殺害した。安冨は自分の先輩でもあり、喜舎場朝信にかわいがられていたので、多和田は責任をとって割腹自殺を図ったが、一命を取り留めた。

隠退後も沖縄ヤクザ社会のドンであり続けた喜舎場はそういう多和田を気に入って、新城喜史が殺され、仲本善忠が逮捕されると、旭琉会の二代目を彼に託そうと考えたのである。

二代目を継いだ多和田を待っていたのは、山口組の代紋を掲げた上原組・琉真会との激しい抗争だった。激しい抗争が繰り広げられるなか、多和田や旭琉会最高幹部が次々と逮捕され、指揮官なきまま抗争状態がくすぶり続けた。

その後、山口組本家の仲裁もあり、多和田は昭和56年、三代目山口組・田岡一雄組長を後見人として、三代目山口組二代目吉川組・野上哲男組長、二代目澄田組二代目藤井組・橋本實組長との三人兄弟盃を交わし、その抗争を終息へと導くと同時に、旭琉会の組織改革に乗り出した。

しかし、シマ割りと上納金への不満から内部の反発を買い、57年、旭琉会・富永一家幹部ら2人に射殺された。

結局、「いくさ世」の6人の主役たちのうちの4人までが、志半ばにして撃たれて死んだということになる。その事実が、沖縄ヤクザの「いくさ世」がいかに厳しい戦いであったかを雄弁に物語っていると言えるだろう。

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