△護佐丸はこの天嶮に據り、士馬を訓練し緩急に備へてゐた。彼は阿摩和利に取つては眼の上瘤であつたらう。しかし阿麻和利は之を除く可き機會を見出した。或日彼は魚舟に乘つて與那原の濱に上陸し、直ちに首里城へ參内して、護佐丸が謀叛の企をなす由を讒言し、王命を奉じて護佐丸を討つた。護佐丸は冤を訴へようとしたが達するに由なく、君命を重んじて敢て一矢を放たず、妻子を殺して自殺してしまつた。さて護佐丸が儒教的訓戒を守つて快く死んだ所は、やがて倫理的價値の存ずる所であらう。
阿麻和利考
阿麻和利考(六)
△屋良村の百姓の子は遂に王の妹を妻にすることが出來た。例の由來傳は記して曰く
阿麻和利考(五)
△阿摩和利が勝連の按司となつてより政蹟大にあがり、半島の民擧つてキモタカの阿摩和利を謳歌し、遠近の人々皆その風を慕ふたのである。今日でこそ勝連半島は寂しい村落になつてゐるものゝの、その昔は隨分繁昌した所である。當時の民謳つていはく
阿麻和利考(四)
△阿摩和利はとにかく勝連の人民の意志によつて半島の主人になつたのである。然るに夏氏由來傳に
阿麻和利考(三)
△阿摩和利は實にかういふ時勢に出たのである。そも〱彼は如何なる家に生れて如何にして育つた者であるか、彼れの父母兄弟に就いては記綠も口碑も之を語つてゐない。只だ彼れの靑年時代に就いて其敵者たる夏氏の由來傳が
阿麻和利考(二)
△阿摩和利が琉球史上如何なる地位を占むるかを知らうとするには、三山時代前後の社會状態を一瞥する必要がある。さてこれまで琉球史を書いた人は、皆玉城王の晩年(十四世紀の初)に國が分れて、中山、南山、北山の三王國となつたと言ふて、さながら一の王國が分裂したやうに思つてゐるが、余はこの分れると言ふことに就いて多少疑を抱いてゐる。
阿麻和利考(一)
かつれんはいきゃるかつれんが
しまのうちにとよませ
きむたかはいきやるきもたかが(勝連のおもろ双紙)