間抜けな “戦士” たち

先月16日の辺野古沖転覆事故に関する記事のアップし続けたのが影響したのでしょうか、最近気分が重たい感があるので、今回は気分転換がてら “スカッと爽やかな” 60年前の沖縄ヤクザ関連の記事をアップします。

60年前のアシバー関連の大事件と言えば、昭和41年(1966)4月10日、石川市(当時)で起こった泡瀬派組員による那覇派組員の刺殺事件、そして同年9月の泡瀬派解散などがありますが、今回は同年4月23日未明に起こった喜舎場朝信殺人未遂事件について言及します。まぁ~この事件は沖縄ヤクザ史を語る上で有名過ぎるほどの案件ですが、とりあえず琉球新報の初報をご参照ください。

瑞慶覧で殺人未遂 / 暴力団かピストル不発、助かる

【北中城】23日午前1時ごろ、北中城村でピストルによる殺人未遂事件が発生した。

同日午前1時ごろコザ市安慶田、喜舎場朝信さん(47)がコザの自宅から乗用車に乗って普天間に行く途中、北中城瑞慶覧の米人学校付近の五号線路上で、うしろからきた二人乗りの車に呼びとめられ、助手台に乗っていた一人の男が「喜舎場さんですね」といって確かめてから、いきなりピストルを突きつけ、引き金を引いたが不発に終わった。

喜舎場さんは、大声をあげて米軍部隊内に逃げ込み、男たちの車はコザ方面に走り去ったという。

普天間署では殺人未遂事件として捜査しているが、喜舎場さんが以前、暴力団コザ派と関係していたことから、暴力団の対立にからむ事件だとみて捜査している。(昭和41年04月23日付琉球新報夕刊3面)

なおこの記事は事実関係が(一部)不正確で、正しくは「普天間の田場盛孝宅から自宅に帰宅しようとした途中、瑞慶覧の久場崎ハイスクールあたりで、後続の車にバッシングされ停車を余儀なくされた喜舎場が、車から降車後に銃撃されるも不発のため……」という流れです。ちなみに喜舎場がなぜ普天間の田場宅にいたかというと、同年4月10日の泡瀬派による那覇派組員刺殺事件に関して、泡瀬派との那覇派の仲介役として参加していたからです。

ただしこの事件は暗殺というには極めて稚拙であり、同年同月22日に泡瀬派幹部と実行犯3人が集まり共助謀議をしたとありますが、(当時のマスコミで)戦士と称されたの3人の行動派(実行犯)は事前に拳銃をチェックしていなかった可能性が高いのです。つまりその場のノリでついうっかり喜舎場を殺しにいってしまい、しかも失敗したのです。

同年5月16日付琉球新報特集記事「続・組織暴力」にはこんな面白い一節があります。

つかまらぬ新垣

泡瀬派の殺し屋三人のうち、平良(清秀)と仲宗根(盛吉)の二人は警察に逮捕されたが、ピストル二丁をもつ新垣(光秀)は警察の捜査網をくぐって、いまだに逃げ回っている。事件後、新垣は、与那城村内の通称「アカムヤー」の特飲街に姿を現わし、顔見知りの男に「ピストルの構造がわからずに、喜舎場を撃ちそこねたが、こんどはかならず〔しとめて〕みせる。警察には絶対つかまらない。ピストルは二丁ある」といっていたという。おそろしい話だ。

さきに記者が、コザ市〔安慶田〕の自宅に喜舎場をたずねたとき喜舎場は「逃げている新垣がいつ自分を襲うか不安でならない。以前、私の乗用車にピストルのたまを打ち込まれたことがあるが、あれも泡瀬派の仕わざにちがいない」とおびえていた。

泡瀬派の殺し屋にたいし、山原派のある幹部は「山原派にも行動派は多い」と反ばくして「昨年2月、山原派組員・具志堅弘、上原秀吉らが短刀やコン棒で泡瀬派の親分、喜屋武盛一(26)と幹部、比嘉政勇を襲い、袋だたきにしたが、山原派にはそのような行動派はいくらでもいる」とうそぶいていた。

おいちょっとまて、暗殺実行するまえに、試射しとけよ

とツッコミたくなったのは気のせいでしょうか。今回は事件の経緯については割愛しますが、沖縄ヤクザ史に間抜けとして名前を残した3人の “戦士” のご尊顔をアップして今回の記事を終えます。