続・琉球藩の時代 朝鮮民主主義人民共和国との比較 その2

King_Sho_Tai

前回の記事において、琉球藩と北朝鮮では「支配者一族が、権威と権力と財を一手に握っている」ことについて記述しました。両者の共通点は、支配者階級内に儒教的な発想があること、家族主義的な考え方が根強いことによって、支配者一族に名誉や富が集中してしまう傾向が出てくることです。違いは、琉球王国の場合は「王国」ですので一族に社会のすべてが集中してもおかしくない政治体制ですが、北朝鮮の場合は結果としてそうなってしまったことです

その他の共通点を探っていくと、以下の2点があります。一つは「民間にお金持ちが見当たらない」ことと、もう一つは「官吏の腐敗堕落が著しい」点です。これらについて説明します。

・民間にお金持ちが見当たらない。

北朝鮮の場合は、ご存知の通り共産主義がベースの社会体制ですので、原則として私有の観念はありません。それ故に土地をはじめ個人所有という発想がなく、国家がすべてを管理・配給するシステムが採用されました。ただしこの運用は21世紀に入って食料の配給制を廃止したことで、事実上崩壊します。それから10年以上は経過しているにも関わらず、現時点に至るまで民間の資本家が誕生していないのは、極めて興味深いところです。

その理由は、未だに中国流の「改革・解放」が禁止扱いになっていることでしょうか。金正日の時代に中国共産党が指導する改革・解放路線を徹底的に拒否したツケが現代に回っている感じです。そのため北朝鮮の金持ちは公的存在ではなく、社会の裏面に存在する形(つまり非公式、黙認の階級)になってしまい、産業経済が実に歪な形になってしまったのです。簡単に言えば、北朝鮮の人たちには投資→回収の発想が理解できません。社会全体の商取引が投機一辺倒になってしまっているように見受けられます。

琉球王国も、薩摩藩の支配下後に農村社会が激変します。地割と呼ばれる土地制度が本格的に運用されるようになったのです。地割の特徴は以前にも記載した通り、耕作者に土地の所有を認めず、耕作地はすべて村で管理することです。琉球藩の時代には、耕作地における官有(村所有)と民有(おえか地、仕明地、仕明請地など)の比率は推定で3対1でした。それ故に明治時代に来沖した官吏たちは、農村において民有地が少ないことと小作人が非常に少ない点に驚いています。

民有地が少ないということは、結果として大地主の絶対数の不足を意味します。琉球王国時代にも、富農や豪農は存在していましたが、その数が極めて少ないため琉球社会において一定の階級を形成するまでには至りませんでした。つまり民間においてお金を使う階層がほどんどなく、産業経済上で消費活動が停滞するシステムにならざるを得なかったのです。しかも那覇や首里などの都市部でも大店舗を設けることが事実上禁止されていたために、商業活動は小売一辺倒になってしまい、結果として大量生産→大量消費の経済システムが遂に誕生しませんでした。

面白いことに、琉球藩の時代も現代の北朝鮮にも「投資」という発想がありません。北朝鮮の場合は、民間の資本家が表に出てこないため、社会の裏面において投機活動を行わざるを得ないことが原因ですが、琉球王国の場合は、

  • 農村部において大地主の絶対数が不足し、都市部においても大商人が存在しないため、社会の消費活動に刺激を与える新しい階層が誕生しなかった。
  • 社会全体を見渡しても、富裕層が投資できる環境がなかった。

の2点が考えられます。そのために琉球王国内の数少ない裕福層の資産は事実上「死産」になってしまい、産業経済に大きな刺激を与えることができず、産業経済は停滞状態から抜け出すことができない極めて厳しい状態のまま琉球藩から沖縄県に鞍替えすることになってしまったのです。(つづく)

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