公同会運動の考察 その2

公同会運動について述べる前に、廃藩置県後の沖縄における社会的勢力について説明します。大雑把な分類になりますが、下記をご参照下さい。

頑固党白派 琉球士族の多数を占める勢力。上級士族クラスは中城御殿(現在の首里高校敷地内にあった国王の世子の住居)に集合して、復藩について日夜議論していました。かつての琉球王国の国体(日支両属体制)復活希望で、当然新政府に対しては良い感情を持っていません。

・頑固党黒派 旧士族内における少数派で、清国と連携して琉球王国を復興を志向する勢力。代表的な人物は東風平間切の大ボスであった義村朝明を挙げることができます。

・開化党 旧士族内における少数派で、明治政府と連携して沖縄県の近代化を図る勢力。初期の代表的な人物は首里士族出身で第一回留学生の太田朝敷、高嶺朝教等、1893年(明治26)に設立した琉球新報社を中心として啓蒙的な活動を行っていました。

上記の分類はあくまでも士族内の話で、人口の3分の1以上を占める百姓にはあまり縁のない案件です。廃藩置県後における政策の結果、百姓たちはかつての極貧の状態から貧困へアップグレードすることになったため、総じて新政府歓迎の状態でした。(単純に地頭クラスに収める貢租などを廃止しただけですが農民の負担は激減します)

ほかに寄留商人に代表される内地人(来沖した他府県出身者)の階層もありましたが、公同会運動にはあまり関わっていないため今回は特に言及しません。

置県後の沖縄において、多数を占める頑固党と少数の開化党の確執は深いものがありました。よく考えると、王家を廃止した挙句に国王尚泰を東京に連行した明治政府に対して、当時の琉球士族たちが良い感情を持つことは不可能です。開化党の人たちですら、置県当初は沖縄県庁に勤めるのをためらった位ですので、頑固党のみなさんが新政府のお役人および協力的な沖縄県人に対して「この野郎!」と思うのも無理はないのです。

公同会の請願書や趣意書を読むと「廃藩置県後に人心が乱れて大小の党派をつくって一致協力する雰囲気にない」旨の記載がありますが、これは本当のことで、当時の殺伐とした雰囲気のおかげて明治政府も当分は琉球王府時代の旧慣を温存せざるを得ない状態でした。そんな社会情勢の下で1894年(明治27)に日清戦争が勃発し、予想をはるかに超える日本の快進撃の報に接することで、頑固党と開化党の確執は頂点に達することになります。(続く)


公同会関連資料 http://www.ayirom-uji-2016.com/related-documents-of-koudoukai

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