俺が調子に乗って『琉球紀行』を解説するシリーズ その2

今回からはがブログ主初めて『琉球紀行』を読んだ際にガチで挫折しかけた箇所の解説になります。明治時代の日本の役人さんから見て琉球の位階制度がややこしいというお話ですが、実際にブログ主も上手く説明できるかハッキリ言って自信ありません。ただし解説すると宣言した以上は弱音を吐かずにガンバって記事を掲載します。

○君主専制の形をなし上下尊卑の分甚過厳、国王の如きは天上の人の如く曾て如何なる人とるを知るもの少し。多く王室に隠居し酒食婦人と共に世間の事情を知らず、又長幼を問わず常に摂政の官を置き、三司官と云ふ参議員三名とに国事を委ね、身体を運動せず心気を用ひらるが故に多く病症にあるなり。

この項目は琉球藩の君主制についての河原田氏の感想です。日本のお役人から見ても当時の社会における身分制度は非常に厳しいと率直に感想を述べています。面白いのは「長幼を問わず常に摂政の官を置き」とありますが、よく考えると琉球王府(あるいは琉球藩)の時代には確認できる限りで1629年から1875年まで摂政は常駐で21人が任命されています。どうやら日本の朝廷のような「則闕の官」という発想はなかったようです。

「身体を運動せず心気を用ひらるが故に多く病症にあるなり。」とありますが、ちなみに当時の国王尚泰は、明治8年(1875)明治政府から、清国との関係を断絶するよう通達されたことが原因で、精神的なダメージから飲食も間もない状態でした。そのときの様子は下記の『琉球見聞録』の抜粋をご参照ください。

明治8年(1875)正月朝廷より三司官一名及び與那原親方を召すの命令到達す。蓋し此時琉球官中日本語を通暁する甚だ少し、唯與那原は固より之を熟達するを以てなり。三司官池城親方、與那原親方、鎖之側幸地親雲上(向徳宏)随役8名を伴ひ、汽船に駕し、11日那覇港開洋東京に赴く。今般朝廷の命令は如何なる事情なるを知らず、上下一般恐怖して為す所を知らず。藩王乃衆官吏を派遣し、国内各所の寺院仏神嶽森へ祈願せらる。又国中に令して人民各自之を祈願せしむ。

池城等東京に抵る朝廷乃ち当藩清国交通を断絶すべき旨達せらる。琉球数百年来清国の恩義ありて進貢を絶つべき理由なしを以て頻りに懇願すれども聴許れられず。

(中略)此月(4月)池城等随役を帰藩せしめ清国交通断絶するべき朝命あるを聞す。藩王大に驚愕し胸膈否塞し飯食喉を下る能はず。日々水醬少許を下すのみ。諸医百方療治するも其効を見ず。衆官吏国人も又疼胸し措を失う。三司官令を国中に下し家々各自藩王快癒を神仏に祈願せしむ。藩王粒食せざる百餘日、幸に恙なし。此時牛乳なし、又之を用ふる法を知らず。(琉球見聞録巻ノ一より)

数百年にわたる中華の皇帝との関係断絶を要求されたら、たしかに思考停止→心身ともに大ダメージを受けて首里城内に引きこもりたくなる*気持ちは分かります。河原田氏もそんな国王の様子を聞いてこのような感想を記載したのでしょうか、その点は少し気になります。

*その後尚泰王は神仏祈願にどっぷりハマるようになります。ものすごく追い詰められた心理状態だったのかもしれません。

ここで江戸時代の琉球国王と、徳川家将軍と、天皇家の在位期間と平均年齢を比較すると、

・天皇家 15代(後陽成~孝明まで)平均在位期間は18.06年、平均年齢は47.6歳。

・徳川将軍家 15代(家康~慶喜まで)平均在位期間は17.46年、平均年齢は51.46歳。

・琉球王家 13代(尚寧~尚泰まで)平均在位期間は20.38年、平均年齢は40歳。

になり、在位期間は大きな違いはありませんが、平均年齢に差があります。16代国王尚成が満3歳で亡くなられたこともありますが、尚成王を省いた12人の平均年齢も43歳と短く、同時期の天皇家や徳川将軍家とは差があります。河原田氏の記述は案外根拠のないデタラメという訳ではなさそうです。(続く)

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