前置き・13世紀後半から16世紀末にかけての琉球国の中継貿易について 2

(続き)琉球国からすればこの慣例は邪魔そのもので、しかも京都の足利家*と薩摩の島津家で勝手に決めた政策ですから腹立たしいことこの上ないのですが実力でひっくり返すだけの国力はありません。残念ながら黙って従うしかなかったのです。そのため琉球国側でも薩摩の島津家との関係*は中国大陸の皇帝と同じく重要な課題になっていたのです。

*15世紀には京都の足利家と琉球との交流があり、6代将軍義教の時には2~3年に1度のペースで使者を派遣しています。ただし応仁の大乱以降は京都との交流が事実上できなくなります。

*尚真王の時代の1482年(文明14)に薩摩への正式の使者を派遣するようになりますが、それを綾船と呼びます。綾船は1609年の薩摩入りまで計13回派遣されます。

琉球・沖縄の歴史で明国の朝貢貿易の政策の下、中継貿易の拠点として繁栄したのは1372年~1511年の約140年間です。1511年(永正8)にポルトガル人がマラッカを占領したことで東南アジアへの交易ルートが事実上絶たれます。そうなると交易ルートは日本⇔琉球⇔明のルートのみになってしまい、その結果薩摩の琉球に対する優位性がますます増します。

しかも新参のポルトガル人は琉球を経由せずにマラッカ⇔マカオ⇔九州(平戸など)の独自のルートで交易をおこないます。16世紀半ばには明国も海禁政策を緩めたことで中継貿易の拠点としての琉球の地位は絶賛急降下します。明国との2年1貢の朝貢貿易の利権だけは辛うじて維持しますが、16世紀後半の琉球国の財政は極めて厳しい状況にまで陥ってしまったのです。前置きが長くなりましたが、14世紀後半から16世紀後半までの約200年にわたる琉球の交易について記載しました。大交易時代に関しては上里隆史先生の「目からウロコの琉球・沖縄史」ほか数多くの優れた著作があるので、ここでは簡単に纏めて本題である琉球・沖縄の歴史の概要に戻ります。

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