閑話 歴史に時効の概念を導入せよ その3

前回記事において、時効の概念を導入しないと当事者間の力関係によって歴史的事実が恣意的に解釈されてしまうお話をしました。ブログ主は歴史の記述にも「時効の概念」を大胆に導入すべきを考えますが、追加でもう一つ理由を述べます、それは

「謝罪と賠償の要求には原則として上限がない」

からです。簡単に言えば

・ある歴史的事実について当事者間で謝罪と賠償の合意ができた。

・謝罪と賠償が足りない。

・追加の合意ができる

・まだ足らない、誠意に欠ける云々。

・当事者間で新たな揉め事の発生。

のループに陥りやすいからです。現在の日韓関係がまさにその流れですが、これは韓国人の民度云々の問題ではなくて、彼らに「時効の概念」が欠けているからそうなってしまうのです。

ちなみに我が沖縄県民も韓国の人たちを笑えません。いつまでも内地の日本人たちに「沖縄戦の悲劇が云々」と言いたがる傾向があるでしょう。特にここ数年の沖縄2紙(沖縄タイムス、琉球新報)にその傾向が強いです。内地の日本人たちが眉をひそめて「いつまでも昔のことを」と内心思っているにも関わらず、沖縄県民が何時までも沖縄戦における加害責任を追及するのは果たして健全なことなのか。

時効の適用は人情に反する概念です。「一定期間を経過したら水に流せ」の発想は実際に自分がその立場になったら受け入れ難いものですが、子孫代々に憎しみを継承させるよりは遥かにマシです。いじめを受けた被害者の子孫が加害者の子孫を責め続けるのと大差ありません。加害者の子孫として生まれたこと自体を罪と看做して先祖の行為の責任を問い続けることが果たして正しいのか、21世紀の現在において沖縄戦の歴史的事実を考える上で、時効の適用はすべての歴史家にとって避けられない課題になるとブログ主は予想しています。(終わり)

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